第319話:『影の疾走、軍師の絶叫(心内)』
北壁の砦、作戦室。
張り詰めた空気の中、部屋の隅の影から音もなく姿を現したゲッコーさんが短く報告を告げた。
「……ナディムより連絡あり。エノク老師、指定の場所へ赴くとのことです」
その言葉に私は安堵の息を長く吐き出した。
これで直接会って話をすることができる。感謝と懺悔を。そしてこれからの北の未来を。
だが安堵したのも束の間、すぐに現実的な問題が私たちの前に立ちはだかった。
会談場所に指定した『枯れたオアシス跡』は、ゲッコーさんが「我が部隊で完全に封鎖し鼠一匹通さぬ聖域にできる」と太鼓判を押した天然の要塞だ。しかしそれゆえに道程は極めて険しい。岩場を縫うような細い獣道が続き、当然ながら馬車などは到底入れない。
隠密裏にかつ最速で向かうには、少数の騎馬で荒野を駆け抜けるしかなかった。
「なりません! リナ様を馬の背に乗せ、そのような道なき道を行かせるなど!」
セラさんがいつになく強い口調で猛反発した。
「そうです! どうしても行かれるというのなら私が同乗し、この身をクッションにしてでもリナ様をお守りいたします!」
ヴォルフラムさんも鼻息を荒くして一歩前に出る。
「……目立ちすぎます。完全武装の騎士が護衛についていれば隠密行動の意味がない」
ゲッコーさんが淡々と事実だけを指摘した。
「俺の馬に同乗させるのが最も速く確実です。道中の痕跡も残しません」
有無を言わさぬプロの論理。
セラさんとヴォルフラムさんはぐっと言葉に詰まり悔しげに唇を噛んだ。
「……仕方ありませんね。ですが絶対に、絶対にリナ様に傷一つつけないでくださいよ!」
セラさんはゲッコーさんに鋭く釘を刺すとクララさんを呼び寄せた。
そこからが大変だった。
「夜の荒野の風を舐めてはいけません。しっかり着込んでいただきます」
「鞍の揺れで身体を痛めないようこちらを何重にも巻いて……」
二人のプロフェッショナルな侍女の手によって私は最高級のウールと毛皮で作られた防寒着を着せられ、さらにその上から厚手のマントでぐるぐる巻きにされた。
「セ、セラさん……これじゃ私ただの丸い毛玉です……!」
首から下はモコモコで腕を動かすことすら一苦労だ。
「……軍師殿が落馬して首の骨を折られては帝国の損失ですからな。それくらいでちょうど良いでしょう」
壁際で書類を見ていたアイゼンハルトさんが真顔でそんな恐ろしいことを言う。彼の言葉にセラさんたちがさらに毛布を一枚追加した。私は諦めて大人しく毛玉になるしかなかった。
◇◆◇
夜陰に紛れ私たちは砦の裏門から音もなく出立した。
月が薄雲に隠れる絶好の隠密日和。
私はゲッコーさんの前にちょこんと座る形で彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。周囲には少し距離を置いて少数精鋭の『影』たちが護衛についている。
馬が走り出し夜の冷たい風が頬を撫でる。
私は揺れる馬上にあって静かに思考の海へと沈んでいった。
(……エノク老師にはまず深く感謝を伝えなければ。そして……)
私の読みの甘さがどれほどの危機を招いたか。あわやバラク殿を死地に追いやるところだった。
盤面の上で駒を動かしているだけでは現場の熱や人の悪意の泥濘を見落としてしまう。私は軍師として、他人の命を預かる者として、もっと深くもっと冷徹に、そしてもっと誠実に事態を見極めなければならなかったのだ。
(老師の機転がなければ今頃バラク殿は……。私は彼らの命の恩人になどなれていなかった。ただの未熟な子供だ。……この痛切な反省と懺悔を包み隠さず伝えよう)
自責の念と軍師としての重圧に心を沈ませていたその時だった。
「ゴオオオオオオオオオオッ!!」
ふと意識が現実に戻ると耳元で凄まじい暴風の音が鳴り響いていた。
「……あれ?」
目を開ける。
夜目にもわかるほど周囲の荒野の景色が尋常ではない速度で後方へカッ飛んでいく。岩も枯れ木も全てがブレて線になっている。
(って!)
私は息を呑んだ。
背後のゲッコーさんは無表情のまま風の抵抗を極限まで殺す凄まじい前傾姿勢をとり、馬の限界速度をこれでもかと引き出していた。文字通りの“影の疾走”。
馬の蹄が大地を蹴るたびに私のモコモコの身体がポンポンと宙に浮く。
(ゲッコーさんはやい! はやい! ちょっと待ってこれ速すぎませんか!? うひーっ!!!)
心の中で八歳の少女が絶叫を上げる。
胃がふわふわと浮き上がり目から勝手に涙が滲み出そうになる。遊園地の絶叫マシンなんて目じゃない。シートベルトも安全バーもなくただ隠密のプロフェッショナルの腕の中に抱えられているだけのノーガード戦法だ。
「ヒッ……!」
段差を越えた瞬間思わず変な声が漏れそうになるのを私は必死に噛み殺した。
い、言えない。
エノク老師の待つ場所へ帝国の命運を背負う「天翼の軍師」として向かっているのだ。しかも任務に忠実なゲッコーさんの前で「怖いからゆっくり走って」などと泣き言を言えるはずがない!
私は必死に威厳ある無表情を保とうと努力した。
実際には風圧と恐怖で顔が引き攣りひたすら前を見開いているだけの状態だったが、幸い夜の闇がそれを隠してくれていた。
シリアスな内省モードは完全に吹き飛び、私はただただ振り落とされないよう丸い毛玉のような格好でゲッコーさんの腕にギュッとしがみつく。
軍師の悲鳴なき絶叫を乗せ一陣の影は彗星のごとく夜の荒野を飛び去っていった。




