第36話:『宰相閣下の査定と甘い賄賂』
「……『帝国高速輸送網整備計画』、だと?」
帝国の行政を司る、宰相アルバート公爵の執務室。
その主である宰相は、グレイグが差し出した、やけに分厚い計画書から顔を上げ、その切れ長の目を、探るように細めた。彼の前には、グレイグと、そして、その後ろに控える私の乗った、あの仰々しい輿が鎮座している。
「はっ。我が軍師殿が立案した、帝国の未来百年の計にございます」
グレイグは、私と打ち合わせた通り、堂々と胸を張って言った。その声には、彼自身もこの計画にワクワクしているのが隠せない、妙な熱がこもっている。
「……ふむ」
宰相は、腕を組み、計画書をパラパラとめくり始めた。そのページには、精密な街道の測量図、各地の特産品と物流のデータ、そして、見たこともない奇妙な機械――『鉄の馬』の設計図が、詳細な説明と共に描かれていた。
しばらくの沈黙の後、宰相は、私の乗る輿に、その視線を移した。
「……軍師殿。これは、君のご発案かな?」
「……いかにも」
私は、輿の中から、変声器を通して尊大に答えた。「我が“目”が、戦の勝利の、その先にある、真の帝国の繁栄を見出したまでのこと」
(うわー、自分で言っててやっぱり恥ずかしい! でも、今は壮大なことを言うのが私の役目!)
「しかし……」
宰相は、計画書の一点を指さした。
「この『鉄の馬』とやら……その動力源である『蒸気機関』。あまりに、荒唐無稽だ。見たことも聞いたこともない技術。これでは、まるで、夢想家の戯言だ。それに、莫大な予算がかかる。今の帝国に、このような不確定な事業に回す余力はない」
鋭い指摘。さすがは、帝国の頭脳と言われる男だ。夢物語を切り捨てる、冷徹な現実主義者の目。
その時、私は、セラ副官に合図を送った。
セラは、静かにお辞儀をすると、一つの豪奢な木箱を宰相の机の上に置いた。
「……これは?」
「宰相閣下。これは先日のお茶会で、皇妃陛下がことのほかお気に召された南方の珍しいお茶菓子にございます」
セラの言葉に、宰相の眉がぴくりと動いた。
私はここぞとばかりに言葉を続けた。
「……宰相閣下。この計画がまだ絵空事であることは重々承知しております。故にこの計画に帝国の予算を割いていただこうなどとは、毛頭考えておりませぬ」
「……ほう? ではどうするつもりだ」
「先日陛下より賜りました私の報奨金、その全てをこの計画の初期開発費用として投じさせていただく所存。まずは試作品を一つ作り上げる。その上で実用に足るか否か、閣下にご判断をいただきたい。……もしこれが本当にただの絵空事であったなら、私の財産が消えるだけのこと。帝国には一切のご迷惑をおかけいたしません」
私のあまりに大胆な提案に、宰相のポーカーフェイスがわずかに崩れた。
そして彼は、セラが差し出した「賄賂」――皇妃陛下のお気に入りのお菓子――にちらりと目をやった。
それは単なる菓子折りではない。「この計画には皇妃陛下も関心をお持ちですよ」という無言の圧力だ。
宰相は長いため息をついた。
「……軍師殿。あなたは戦場だけでなく、このような交渉の場においても実に厄介な相手だ」
彼はそう言うと、計画書に自らのサインを書き入れた。
「……よかろう。試作品の開発までは承認する。表向きはグレイグ将軍直轄の新型兵器開発プロジェクトとして、軍の工房と一部の人員の使用を許可しよう。ただし予算は出さん。全て君の私財で賄うことだ」
「……御意」
こうして、最大の難関であった宰相の承認を、私はなけなしの財産と皇妃の威光という名の甘い賄賂を使って見事勝ち取ったのだった。
◇◆◇
その日の午後。
皇帝の執務室では、宰相が先ほどの顛末を皇帝に報告していた。
「……というわけで陛下、あの軍師殿はご自身の報奨金を全てはたいて、何やら奇妙な『鉄の馬』なるものを作るようです」
「なんと! あの小娘、本当にやりおったか!」
皇帝は腹を抱えて笑った。
「自分の金でやると言われては、さすがのそなたも認めざるを得なかったというわけだな! まさに外堀から埋める見事な手際よ!」
そこへ、噂をどこからか聞きつけた皇妃セレスティーナが優雅に入室してきた。
「まあ陛下。リナが何かまた面白いことを始めたそうですわね」
「うむ。自分のなけなしの小遣いで鉄の馬車を作るそうだ。どうなることやら」
「ふふ、楽しみですわね。あの子のことですもの、きっと私たちを驚かせるような素敵なものを作り上げるに違いありませんわ。……ねえあなた、もしあの子の予算が足りなくなったら、私の私財から少し援助してさしあげてもよろしくて?」
「……お前まであやつに誑かされたか」
皇帝は呆れたように、しかしどこか楽しそうにそう呟いた。
帝国の権力の中枢で、三人の貴人が一人の小さな少女の途方もない計画について語らっている。
彼らはまだ知らない。
自分たちがただの「面白いおもちゃ」だと思っているその計画が、やがてこの世界のあり方そのものを根底から変えてしまうことになるということを。
そしてその計画の責任者であるリナは、今、宿舎の部屋でマキナに送るためのより詳細な設計図を描きながら、こう呟いていた。
「(ふふふ……これで心置きなく開発に集中できる。……ああ、でも私の報奨金……孤児院に送る分が減っちゃったな……。まあいいか。これも未来への投資だもんね!)」
帝国の未来と孤児院へのお菓子の仕送りを天秤にかけ、本気で悩む小さな軍師の姿をまだ誰も知らなかった。