第317話:『戦士の傷跡、盲信の報告』
バラクが率いる車列が砂塵を巻き上げて遠ざかり、蹄の音が荒野の風に完全に溶けて消えた後。
『黒の宮殿』の玉座の間には、嵐が過ぎ去った後のような、どこか空虚で重苦しい沈黙が降りていた。
玉座に深く腰掛けたクルガンは、手元の杯に残った酒を喉を鳴らして飲み干すと、不敵な笑みを浮かべて傍らの参謀へ視線を向けた。
「……どうした、ヴィクトル。いつになく眼鏡の奥が暗いぞ。あの古狼の毒見の茶番で、貴様の緻密な計算が狂いでもしたか?」
ヴィクトルはすぐには答えなかった。彼は神経質そうに細い指で眼鏡のブリッジを押し上げると、不快感を隠そうともせず、地平線の彼方を睨みつけるように窓外へ目を向けた。
「……解せませんな。全てがあまりに出来過ぎている。あの泥だらけの献上品も、衆人環視を突いた毒見も……。まるでこちらの『次の一手』を先読みし、完璧な対策を用意していたかのようだ」
ヴィクトルの脳内では、未だに「ありえない」という警告灯が点滅し続けていた。バラクが命綱である薬草をあっさりと差し出し、自ら死地に等しい本拠地へ乗り込んできた理由。それが単なる「忠誠」であるとは、彼の冷徹な合理主義がどうしても認められなかったのだ。
「ふん。疑いすぎは病だぞ、ヴィクトル。奴らは俺の覇道に怯え、必死に媚びを売っているだけだ」
「だとよろしいのですが。……覇王よ、バラクを護送してきた近衛兵団長を。奴らの野営地の『実情』を、その口から直接語らせるべきです」
クルガンが短く顎でしゃくると、控えていた衛兵が、広場で待機していた近衛兵団長を呼び寄せた。
現れたのは、戦場叩き上げの屈強な武官だった。彼は玉座の前で音を立てて膝をつくと、高揚した面持ちで頭を垂れた。
「バラクの野営地の視察、完了しております!ご報告申し上げます!」
「苦労かけたな。……して、兵団長よ」ヴィクトルが氷のような声を投げかける。「貴様の目で見たバラクの野営地はどうであった。病で死に絶えるのを待つばかりの墓場だったか?」
その問いに、兵団長は力強く首を振った。
「いえ! むしろ逆であります! 確かに病に伏せる者もおりましたが、それ以上に私の目に付きましたのは……凄惨なまでの『戦場』の痕跡であります!」
ヴィクトルの眉がぴくりと動く。
「戦場の、痕跡だと?」
「はっ! 広場の一角には、血の滲む包帯を巻いた戦士たちが溢れておりました。腕を吊る者、足を引きずりながらも槍を杖にする者……。その多くが、刃物による生々しい裂傷や、強烈な打撃を受けた形跡が確認されました」
兵団長は、自らが目撃した光景に一欠片の疑いも持っていないようだった。
「戦士たちは皆、鬼のような形相で、『次は必ず帝国の首を獲る』『この屈辱は血で洗う』と、煮え滾るような殺気を吐き出しておりました。あれほどの戦意……。ただの芝居で偽れるものではございません!」
兵団長の熱を帯びた報告が、天幕の中を支配した。
彼は知らない。その傷跡の正体が、リナの提案とシュタイナー中将の過剰なまでの熱血指導によって行われた、帝国軍との「実戦形式の合同演習」――すなわち、互いに死なない程度に本気で叩き合った末の、文字通りの『訓練傷』であるということを。
「がっはっはっは!!」
クルガンが、天を仰いで哄笑した。
「聞いたか、ヴィクトル! バラクの爺め、泥を啜り、身内を傷だらけにしてまで、俺の盾として帝国の壁に突き進んでおるのだ! これが忠誠でなくて何だというのだ!」
クルガンは満足げに身をのけ反らせ、黄金の杯を高く掲げた。だが、その背後に立つヴィクトルの表情は、報告を聞く前よりも一層険しく、冷え切っていた。
「……覇王陛下。一つ、進言を」
ヴィクトルの静かな、しかし氷の礫を含んだような声が、祝祭の余韻を切り裂いた。
「なんだ、ヴィクトル。まだ疑っているのか? 貴様のその湿った性格には辟易するぞ」
「疑っているのではありません。『危惧』しているのです。……陛下、今の兵団長の報告を、他の部族長たちがどう聞いたとお思いですか?」
ヴィクトルは一歩前に進み出ると、眼鏡を指先で直し、クルガンの耳元へその顔を寄せた。
「『バラクは民のために秘薬を差し出し、部族の犠牲を厭わず帝国と戦っている』。……今、広場にいる者たちの目には、バラクこそが『北の民を救う真の英雄』に映っている。そうは思いませぬか?」
クルガンの杯を持つ手が、ぴたりと止まった。
ヴィクトルの言葉が、クルガンの最も柔らかく、最も肥大化した急所――「絶対的支配者としての自己愛」を正確に抉ったのだ。
「民の心は脆いものです。死の病から救ってくれた者が、もし覇王である貴方ではなく、辺境の老族長であると皆が信じ込んだ時――それは『統治』ではなく、『崇拝』の対象が入れ替わる瞬間でございます。奴はただの忠臣ではない。陛下の座を狙う、最も老獪な『簒奪者』の顔をしておりますよ」
ガシャンッ!!
クルガンの手の中で、分厚い黄金の杯がひしゃげた。歪んだ金属の間から赤い酒が溢れ、彼の屈強な拳を汚していく。
「……俺以外の者が、俺の民を救うだと? バラクごときが、俺から『王の威信』を奪うというのか……!」
クルガンの瞳に、純粋な怒りとは違う、支配者の醜い嫉妬と強迫観念がどす黒く渦巻く。その反応を見て、ヴィクトルは内心で冷酷に舌舐めずりをした。
これでいい。盤面をひっくり返されたなら、盤ごと焼き払えばいいのだ。
「その可能性を摘み取らねばなりませぬ。……陛下、あの薬草を、全土に『公平』に配る必要などありません」
ヴィクトルの声が、ねっとりとゲルの空気を這う。
「配給を『忠誠の選別』に使うのです。覇国への忠誠が厚い部族から優先的に薬を与え、忠誠の薄い者には与えない。薬が欲しければ、より覇王へ尽くすことを強要するのです」
「……アメとムチか。だが、それだけではバラクの威信は潰せんぞ」
「ええ。ですから、最もバラクに近い部族や、不満分子と目される者たちには……あえて『特別に』薬を配ってやりましょう。泥の中に、致死に至らぬまでも激しい苦痛を伴う『毒草』を混ぜ込んで」
ヴィクトルのペールブルーの瞳が、残酷な愉悦に細められた。
「彼らが毒に苦しめば、我々は衆人の前でこう宣告できます。『バラクは秘薬と偽り、我が覇国を内側から崩壊させるための毒を献上した!』と。不満分子を掃除しつつ、バラクを民を殺す大罪人に落とす……。英雄から逆賊へ、完璧な処刑の筋書きです」
クルガンは深く、重い息を吐き出した。その形相は怒りと、それ以上に「英雄としての座」を侵されることへの拒絶感に完全に支配されていた。
「……徹底的に管理しろ、ヴィクトル。……あの泥の中から、『裏切りの証拠』を必ず作り出せ」
「御意に、我が覇王。……薬師たちには、特別な『調合』を命じておきましょう」
ヴィクトルは懃に一礼し、踵を返した。その足取りは、先ほどまでの焦燥を微塵も感じさせない、確信に満ちたものだった。
(……どう足掻こうと、これで薬の配給権は我々が独占した。この北の大地で、私が配る薬こそが『唯一の本物』となるのだ)




