第316話:『古狼の置き土産』
謁見が終わった後のヴォルガルド本拠地は、奇妙な静けさと熱狂の残滓が入り混じっていた。
巨大な石造りの倉庫の前では、覇国の兵士たちが舌打ちをしながら泥だらけの薬草を荷車から降ろしている。その量は膨大で、鼻をつく土の匂いと終わりが見えない単純作業に、彼らの顔にはうんざりとした色が浮かんでいた。
倉庫の暗がりから、ヴィクトルはその光景を冷ややかに見つめていた。
(……薬の管理権は手に入れた。だがその実態は『泥と根っこの山』か。これを洗浄し乾燥させ、選別し薬効を確かめ、そして公平に分配する……。なんという非生産的な労力だ)
彼はすでにこの薬草を「バラクを失脚させるための毒」として利用する方法を模索し始めていた。
(この泥の中に意図的に毒草を混ぜ込んでやれば……。あるいは加工の段階で薬効を殺してしまえば。「バラクの薬は効かぬどころか、毒だった」という噂を流すのは容易い)
盤上はまだ五分。ヴィクトルは自らの知略が上回っていると信じていた。
◇◆◇
その頃バラクは帰還の準備を整え、再びクルガンの御前へと進み出ていた。
「覇王陛下。我が役目は終わりました。これにて南の持ち場へ帰還するご許可をいただきたく」
玉座で蒸留酒を煽っていたクルガンが面白くなさそうに片眉を吊り上げる。
「ほう、もう帰るのか。これから祝宴だというのに、参加せんのか?」
その言葉にバラクはわざとらしく南の空を指差した。
「ありがたいお言葉ですが、南の国境が気掛かりでなりません。いつ帝国が動くやも知れぬ。私は一刻も早く持ち場に戻り、覇王陛下の『盾』としての務めを果たさねば」
その言葉は完璧な忠誠の響きを持っていた。これ以上の薬の献上を渋り、帝国との戦いを放棄したと詰られる隙を自ら塞いだのだ。
クルガンもヴィクトルもこれ以上彼を引き留める大義名分を失う。
「……ふん。好きにしろ。だが次は帝国の将軍の首の一つでも持ってこい。枯れ草では酒の肴にもならん」
クルガンの許可を得てバラクは深々と一礼すると、広場へと引き返していった。
◇◆◇
出発直前、本拠地の巨大な城壁の影。
バラクが馬に跨ろうとしたまさにその時だった。
偶然を装いガルドがその前に姿を現した。
「……見事な立ち回りだったな、古狼」
ガルドの声にはわずかな感嘆と根深い疑念が混じっていた。
「一体、何が貴様をそこまでさせる」
バラクはガルドの目を真っ直ぐに見返した。その瞳の奥には演技ではない真実の光が宿っている。
「未来だよ、ガルド。……飢えも病もなく、子供らが腹いっぱい飯を食って笑える未来だ」
彼は声を潜め、二人にしか聞こえぬ声で続けた。
「……かつて誰かと俺が焚火を囲んで夢見た景色と、少し似ているかもしれんな」
その言葉はガルドの心の最も深い場所に突き刺さった。
ガルドが息を呑んだその隙に。
バラクは懐から一つの小さな袋を取り出した。
鮮やかな紫色の紐で固く口が結ばれている。
「……お前さんの息子を救ったのは、こっちだ」
バラクはその袋をガルドの手に力強く握らせた。
「俺がさっき食ったのもな。泥の山とは少し味が違うかもしれん。……家族のために大事に使うがいい」
ガルドは掌の中の袋の意味(本物の証)を悟り、身を震わせた。
バラクはそれ以上何も言わず、ただガルドの肩を一度だけ力強く叩いた。そして馬に飛び乗ると一度も振り返ることなく、砂塵の向こうへと駆け去っていった。
残されたガルドは掌の中の小さな袋を強く、強く握りしめる。




