第314話:『影の攪乱、岩窟の将の決断』
ヴォルガルド覇国の本拠地は目に見えぬ「霧」に覆われていた。
それは天候の話ではない。人の口から口へと伝染する、真偽不明の情報の霧だ。
市場の酒場、兵士たちの詰め所、あるいは水汲み場……。
雑多な人々が行き交う喧騒の隙間で、その噂はさざ波のように広がっていた。
「おい、聞いたか? 南から来るバラクの爺さん、途中の谷で車軸を折って立ち往生してるらしいぞ」
荷運びの男がジョッキを傾けながら同僚に耳打ちする。
「いや、俺が聞いた話じゃ違う。あまりの荷の重さに馬が潰れたんだと。到着は三日は遅れるそうだ」
武器の手入れをしていた兵士がもっともらしく頷く。
「なんでも、薬草だけじゃなく、とんでもない量の貢物を積んでいるからだとか……」
誰もその情報の出処を知らない。
だが、その噂の発生源であるみすぼらしい老人――エノクは市場の片隅で壊れた荷車を修理しながら、ハンマーを叩くリズムに密かな愉悦を滲ませていた。
カカッ、コン。カカッ、コン。
彼らカナン遺民が流したデマは覇国の末端組織を麻痺させていた。報告を受けた衛兵隊長たちは「到着は遅れる」と判断し、警備体制を緩め、ヴィクトルの元へ届く報告書もまた遅延を確定事項として記していく。
参謀ヴィクトルが苛立ちながら待機命令を出し直している頃、エノクは道具を片付け闇に紛れて動き出した。
向かう先は四将軍の一角、『岩窟の民』の陣営。
◇◆◇
夜の帳が下りる頃、エノクは人目を忍び、ガルドの天幕を訪れた。
ガルドは卓上の地図を前に、一人黙考していた。揺れるランプの火が、その岩のような貌に深い苦悩の溝を刻んでいる。
エノクは静かに進み出ると、混乱する情報の中でガルドにだけ「真実」を告げた。
「……バラク様は明日の昼、間違いなく到着されます。本物の薬を山のように積んで」
ガルドの眉がぴくりと動く。エノクは周囲の気配を窺うように一段と声を落とし、この老人にしか見えていない「死の匂い」を語り始めた。
「……ヴィクトル参謀の執務室の近くで、妙な物資の動きを見ました。掃除に入った私の同胞が、奇妙な手配の符丁を目にしたのです。処刑人の待機と、床の血を洗い流すための大量の乾いた砂の準備が、密かに進められております」
「……何だと?」
ガルドが低い声で唸った。
「南からは『蛇の暴走に備えよ』との警告が届いておりました。その為、より警戒をしておりましたところ、今のこの状況……。あの参謀は理屈を超えた焦りに駆られているようです。バラク様が門をくぐった瞬間に密室へ引きずり込み、『偽物を持ってきた』と断じ、死人に口なしで葬るつもりでしょう」
ガルドの拳が震えた。その声には抑えきれない怒りが混じっていた。
「民を救うための薬を持ってきた男を、自らの権勢を誇示するためだけに殺すというのか」
「はい。……どうか、命がけで希望を運んでくる古狼をお守りくだされ。彼がここで不当に死ねば、北の民に救いの薬が行き渡ることは二度とありませぬ」
ガルドは目を閉じ、ギリリと奥歯を噛み締めた。
脳裏に浮かぶのは、死の淵から息を吹き返した幼い息子の寝顔。あの薬と、それを命がけで届けてくれたバラクの恩義は決して忘れない。だが、彼を突き動かしたのは個人的な感情だけではなかった。
(……ここでバラクが理不尽に殺されれば、どうなる)
ガルドは武人として、そして族長としての冷徹な目で盤面を見渡した。
(もはやこの覇国に、あの狂王と毒蛇の暴走にブレーキをかける者は誰もいなくなる。一切の異論を許さず、ただ殺し、奪い、搾取するだけの地獄が完成する。……やがては我が『岩窟の民』の未来も、その炎に焼かれて灰となるだろう)
それは、覇国という巨大な組織が完全に腐敗するか否かの、決定的な分岐点だった。
息子の命を救われた恩義と、部族の未来を護るための大局観。それらがガルドの中で研ぎ澄まされた一つの決意へと練り上げられていく。
彼はゆっくりと立ち上がった。その背中は、すべての迷いを捨て去った武人のそれだった。
「……分かった。私は私の信義で動く」
◇◆◇
翌日、昼前。
荒野を吹き抜ける風がかすかな土煙を運んできた。バラク一行の到着が間近に迫った本拠地へと続く一本の街道沿い。
地響きを立てて進んできた護送役の兵団長は前方の異様な光景に目を見張り、慌てて馬の手綱を引き絞った。
「な、なんだあれは……!」
街道を完全に封鎖するように黒々とした軍勢が立ち塞がっていたのだ。
ガルド率いる『岩窟の民』の精鋭部隊。彼らは一言も発さず、ただ殺気を孕んだ冷たい目でこちらを見据えている。その陣形の最前列で腕を組んで立つガルドの威圧感は、吹き荒れる風さえも止めるかのようだった。
「ガ、ガルド将軍!? なぜこのような場所に陣を敷いておられる!」
兵団長が馬を進め声を張り上げる。
ガルドは無表情のまま兵団長とその後ろに続くバラクの荷車を一瞥した。
「怪しい物や武器などが混ざっているやもしれぬ。本拠地の門をくぐる前に私がここで検分を行う」
「け、検分だと? しかし我々はすでに現地の野営地で……! それにこれは覇王陛下直々の命で運んでいる品だぞ!」
兵団長が反発の声を上げたその瞬間だった。
ガルドがスッと目を細めた。
同時にガルドの傍らに控えていた副官が無言で右手を振り下ろす。
ジャキッ!!
一糸乱れぬ金属音と共に岩窟の民の兵士たちが一斉に長槍の穂先を下げ、兵団長の一行へと鋭く切っ先を向けた。
その本気の殺気に当てられ護送隊の馬たちが悲鳴のような嘶きを上げて暴れ出す。
「なっ……!? き、貴様ら我らに刃を向ける気か!」
兵団長は慌てて腰の剣に手をかけたが、背筋を這うような悪寒に動きを止めた。
ガルドから放たれる圧力が物理的な重さを持って彼の喉元に迫っていたのだ。
「貴様らの節穴のような目は信用ならんと言っているのだ」
ガルドは地獄の底から響くような低い声で一喝した。
「万が一にも覇王陛下に害をなすものが紛れ込んでいれば誰が責任を取るのだ。……通したくば今ここで、全ての荷車の底まで改めさせろ」
空気が凍りついた。
兵団長の額からどっと冷や汗が吹き出す。ガルドは本気だ。もしここで強行突破しようとすれば、この実直な将軍は躊躇なく自分たちを皆殺しにするだろう。覇王への忠臣行為という大義名分を盾にして。
ここで内乱を起こせばそれこそ自分の首が飛ぶ。
「……わ、分かりました。……どうぞ、お改めください」
ついに兵団長が折れ、ギリッと奥歯を噛み締めながら道を譲った。
ガルドは部下たちに合図を送ると自らも荷車の前へ進み出た。
その際、彼は荷車の横で静かに控えていたバラクと一瞬だけ視線を交わした。
(……茶番に付き合え、古狼)
言葉はなくともその目は雄弁に語っていた。
バラクは内心でニヤリと笑いながら神妙な顔で深く頭を下げた。
「どうぞ、心ゆくまでお改めください。やましい物など何一つございませんので」
ガルドは時間をかけて徹底的に荷車を調べ上げ、その「無実」を確定させると同時にもう一つの仕掛けを動かしていた。
本拠地の広場。
ガルドの側近たちが他の部族長たちに巧妙に声をかけて回っていたのだ。
「おい、聞いたか。バラクの爺さんが見たこともない莫大な秘薬と貢物を持ってくるらしいぞ」
「あのガルド将軍が怪しいものが無いか自ら出迎えて検分するほどの量だそうだ」
「これを我らだけで漫然と迎えるのは覇王陛下の威光に関わる。盛大に出迎えようではないか!」
実直で人望の厚いガルドの名前が出たことで部族長たちはこぞって賛同した。強欲なボルガスでさえ「へぇ、そりゃ見ものだな。一番良いところを頂いてやるか」と広場へ足を運んだ。
ヴィクトルが異変に気づき執務室から広場を見下ろした時には時すでに遅し。
そこには多くの兵と数多の部族長がひしめき合い、バラクを「密室で処断する」ことは物理的に不可能な『衆人環視の大舞台』が完成していた。
ヴィクトルはギリリと歯軋りをした。
「……ガルドめ。余計な気を回しおって……!」
舞台は整った。




