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ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 私、リナ8歳です ~軍師は囁き、世界は躍りだす~  作者: 輝夜
第十一章:『一年という名の礎』

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第313話:『盤上のノイズ、参謀の焦燥』

 

 ヴォルガルド覇国、黒の宮殿。

 その一室にある軍議の間は、いつになく重苦しい沈黙に包まれていた。

 壁に掛けられた巨大な北方の地図。その前に立つヴィクトルは、手にした駒を弄びながら、神経質に靴音を響かせていた。カツ、カツ、カツ。正確なリズムを刻むその音だけが、彼の精神の安定を辛うじて保っているようだった。


 バサリ、と天幕の入り口が開く。

 南へ向かった兵団長からの第一報を携え、早馬の伝令が転がり込んできた。泥と汗に塗れたその姿は、吉報を運ぶ者のそれには見えなかった。


「報告ッ! 南方バラク族長、我らの要求に対し……即座に、全量の供出に応じました!」


 その報告が響いた瞬間、ヴィクトルの指から駒が滑り落ち、卓上で乾いた音を立てた。

 玉座で頬杖をついていたクルガンが、怪訝そうに片眉を跳ね上げる。

「……ほう? 抵抗なしか。あの古狼にしては張り合いのない」


 だが、ヴィクトルの表情は違った。眼鏡の奥の瞳が、あり得ない解を弾き出した計算機のように小刻みに震える。

(……即決、だと?)

 彼の脚本では、バラクは拒絶するか、あるいは出し渋り、時間を稼ぐはずだった。それが「踏み絵」の前提だ。命綱である薬を、交渉も抵抗もなく手放すなど、生存本能を持った生物のすることではない。


「……ヴィクトル。どういうことだ。奴は隠し持っていなかったのか?」

 クルガンの問いに、ヴィクトルは素早く表情を取り繕い、薄い笑みを貼り付けた。

「……さて。驚くには値しませんな。どうせ、ただの雑草でも詰め込んで、その場しのぎをしたのでしょう。愚かなことです」

 彼は床に落ちた駒を拾い上げ、盤上の『南』の位置に置く。

「偽物と分かれば、即座に首を刎ねる口実ができる。……手順が少し早まっただけのこと」


 だが、その余裕は長くは続かなかった。

 間髪入れず、二人目の伝令が駆け込んできたのだ。その顔色は、先ほどの者以上に蒼白だった。


「ぞ、続報!! バラク族長、薬草の運搬に自ら同行! 覇王陛下への謁見を求めております!」


「……は?」


 ヴィクトルの口から、貴族らしからぬ間抜けな声が漏れた。

 彼の脳内で組み上げられていた論理の塔が、音を立てて崩れ落ちていく。


(本人が来る? 偽物を持って?)

 ありえない。それは自殺志願者の行動だ。あの老獪なバラクが、死ぬためだけにここへ来るはずがない。

(ならば……本物なのか?)

 それも、ありえない。北の全土を救う量の特効薬など、この不毛の大地から湧いて出るはずがない。

(帝国か? 馬鹿な。国境で小競り合いをした直後の蛮族に、帝国がそこまでの肩入れをする道理がない。メリットが皆無だ)


 損得、効率、恐怖。彼が信奉する「世界のルール」のどれを当てはめても、バラクの行動は説明がつかなかった。

 計算式に、未知の変数が混入している。

 ヴィクトルの額に、冷たい脂汗が滲んだ。


「ククク……! 面白いではないか!」

 クルガンが膝を叩いて笑う。

「死にに来たか、あるいは俺を驚かせる手品でも持ってきたか。……ヴィクトル、貴様の脚本より、奴のアドリブの方が楽しめそうだな」


 主君の愉悦に満ちた声が、ヴィクトルのプライドを逆撫でする。

 彼はギリリと奥歯を噛み締め、思考を修正しようと試みた。

「……ならば、迎え撃つまでです。到着次第すぐに薬師を同席させ、密室に引きずり込みましょう。そこで偽物であると断罪し、その場で斬る。……多少強引ですが、結果は同じです」


 彼は即座に部下たちへ指示を飛ばそうとした。

 迎撃の準備を。処刑人の手配を。薬師の待機を。

 だが、その命令系統こそが、すでに何者かによって食い荒らされていた。


 ◇◆◇


 宮殿の外、広場や詰所では、奇妙な現象が起きていた。

 次々と飛び込んでくる「情報」が、どれも矛盾していたのだ。


「おい、聞いたか? バラクの爺さん、途中で怖気づいて逃亡したらしいぞ」

 酒場の給仕が、兵士たちの耳元で囁く。

「いや、俺が聞いた話じゃ違う。護衛の兵団長が買収されて、丸め込まれたって話だ」

 武器庫の番人が、交代の兵に耳打ちする。

「違う違う。薬なんて最初からなくて、極上の毛皮を貢いで許しを乞うつもりらしいぜ」

 市場の商人が、もっともらしく頷く。


 そして、最もヴィクトルを苛立たせたのは、到着時刻に関する情報の錯綜だった。

「荷車の車軸が折れたらしい。到着は三日遅れるようだ」

「いや、川が増水して足止めを食らっている。今月中には来ない」

「何言ってるんだ、もうすぐそこまで来てるって話だぞ」


 真偽不明のノイズ。

 それは、本拠地の足元に潜む『カナン』の遺民たちが、意図的に流したデマの土砂降りだった。

 報告を受けた衛兵隊長たちは判断に迷い、ヴィクトルの元へ確認に走る。

「参謀殿! バラクの到着はいつなのですか!?」

「処刑の準備は明後日で良いのですか!?」

「逃亡したのなら追っ手を出すべきでは!?」


「ええい、黙れッ!!」


 ヴィクトルが、ついに声を荒らげた。

 彼は机上の紙の束を薙ぎ払い、血走った目で怒鳴り散らした。

「惑わされるな! 全て確認しろ! 斥候を出せ! 正確な位置を特定するんだ!」


 だが、一度狂った歯車は噛み合わない。

 現場の混乱は収拾がつかず、ヴィクトルが望んだ「静かで迅速な処刑準備」は、喧騒と疑心暗鬼の渦にかき消されていく。

 彼の完璧だった盤面は、無数の黒い染みによって汚され、盤面の全容が見えなくなっていた。


 窓の外、吹き荒れる風の音が、まるで彼を嘲笑う誰かの忍び笑いのように聞こえた。

 ヴィクトルは眼鏡を外し、疲労に滲む目を指で押さえた。


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― 新着の感想 ―
 輝夜さん、こんにちは。 「ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 私、リナ8歳です 第313話:『盤上のノイズ、参謀の焦燥』」拝読致しました。  地図を広げ、軍議のためか、思考を巡らせるヴィクトル。 …
更新お疲れ様です。 カナンの民の攪乱情報が・・・・^^ ヴィクトルを手玉に取ったリナの手腕に感嘆したクルガンがリナに会ったら「俺の妻に成れ!」とか言いかねない感じがするのですがw 究極のロリコン誕…
「策士策に溺れる」という言葉が似合いすぎる(笑)
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