第313話:『盤上のノイズ、参謀の焦燥』
ヴォルガルド覇国、黒の宮殿。
その一室にある軍議の間は、いつになく重苦しい沈黙に包まれていた。
壁に掛けられた巨大な北方の地図。その前に立つヴィクトルは、手にした駒を弄びながら、神経質に靴音を響かせていた。カツ、カツ、カツ。正確なリズムを刻むその音だけが、彼の精神の安定を辛うじて保っているようだった。
バサリ、と天幕の入り口が開く。
南へ向かった兵団長からの第一報を携え、早馬の伝令が転がり込んできた。泥と汗に塗れたその姿は、吉報を運ぶ者のそれには見えなかった。
「報告ッ! 南方バラク族長、我らの要求に対し……即座に、全量の供出に応じました!」
その報告が響いた瞬間、ヴィクトルの指から駒が滑り落ち、卓上で乾いた音を立てた。
玉座で頬杖をついていたクルガンが、怪訝そうに片眉を跳ね上げる。
「……ほう? 抵抗なしか。あの古狼にしては張り合いのない」
だが、ヴィクトルの表情は違った。眼鏡の奥の瞳が、あり得ない解を弾き出した計算機のように小刻みに震える。
(……即決、だと?)
彼の脚本では、バラクは拒絶するか、あるいは出し渋り、時間を稼ぐはずだった。それが「踏み絵」の前提だ。命綱である薬を、交渉も抵抗もなく手放すなど、生存本能を持った生物のすることではない。
「……ヴィクトル。どういうことだ。奴は隠し持っていなかったのか?」
クルガンの問いに、ヴィクトルは素早く表情を取り繕い、薄い笑みを貼り付けた。
「……さて。驚くには値しませんな。どうせ、ただの雑草でも詰め込んで、その場しのぎをしたのでしょう。愚かなことです」
彼は床に落ちた駒を拾い上げ、盤上の『南』の位置に置く。
「偽物と分かれば、即座に首を刎ねる口実ができる。……手順が少し早まっただけのこと」
だが、その余裕は長くは続かなかった。
間髪入れず、二人目の伝令が駆け込んできたのだ。その顔色は、先ほどの者以上に蒼白だった。
「ぞ、続報!! バラク族長、薬草の運搬に自ら同行! 覇王陛下への謁見を求めております!」
「……は?」
ヴィクトルの口から、貴族らしからぬ間抜けな声が漏れた。
彼の脳内で組み上げられていた論理の塔が、音を立てて崩れ落ちていく。
(本人が来る? 偽物を持って?)
ありえない。それは自殺志願者の行動だ。あの老獪なバラクが、死ぬためだけにここへ来るはずがない。
(ならば……本物なのか?)
それも、ありえない。北の全土を救う量の特効薬など、この不毛の大地から湧いて出るはずがない。
(帝国か? 馬鹿な。国境で小競り合いをした直後の蛮族に、帝国がそこまでの肩入れをする道理がない。メリットが皆無だ)
損得、効率、恐怖。彼が信奉する「世界のルール」のどれを当てはめても、バラクの行動は説明がつかなかった。
計算式に、未知の変数が混入している。
ヴィクトルの額に、冷たい脂汗が滲んだ。
「ククク……! 面白いではないか!」
クルガンが膝を叩いて笑う。
「死にに来たか、あるいは俺を驚かせる手品でも持ってきたか。……ヴィクトル、貴様の脚本より、奴のアドリブの方が楽しめそうだな」
主君の愉悦に満ちた声が、ヴィクトルのプライドを逆撫でする。
彼はギリリと奥歯を噛み締め、思考を修正しようと試みた。
「……ならば、迎え撃つまでです。到着次第すぐに薬師を同席させ、密室に引きずり込みましょう。そこで偽物であると断罪し、その場で斬る。……多少強引ですが、結果は同じです」
彼は即座に部下たちへ指示を飛ばそうとした。
迎撃の準備を。処刑人の手配を。薬師の待機を。
だが、その命令系統こそが、すでに何者かによって食い荒らされていた。
◇◆◇
宮殿の外、広場や詰所では、奇妙な現象が起きていた。
次々と飛び込んでくる「情報」が、どれも矛盾していたのだ。
「おい、聞いたか? バラクの爺さん、途中で怖気づいて逃亡したらしいぞ」
酒場の給仕が、兵士たちの耳元で囁く。
「いや、俺が聞いた話じゃ違う。護衛の兵団長が買収されて、丸め込まれたって話だ」
武器庫の番人が、交代の兵に耳打ちする。
「違う違う。薬なんて最初からなくて、極上の毛皮を貢いで許しを乞うつもりらしいぜ」
市場の商人が、もっともらしく頷く。
そして、最もヴィクトルを苛立たせたのは、到着時刻に関する情報の錯綜だった。
「荷車の車軸が折れたらしい。到着は三日遅れるようだ」
「いや、川が増水して足止めを食らっている。今月中には来ない」
「何言ってるんだ、もうすぐそこまで来てるって話だぞ」
真偽不明のノイズ。
それは、本拠地の足元に潜む『カナン』の遺民たちが、意図的に流したデマの土砂降りだった。
報告を受けた衛兵隊長たちは判断に迷い、ヴィクトルの元へ確認に走る。
「参謀殿! バラクの到着はいつなのですか!?」
「処刑の準備は明後日で良いのですか!?」
「逃亡したのなら追っ手を出すべきでは!?」
「ええい、黙れッ!!」
ヴィクトルが、ついに声を荒らげた。
彼は机上の紙の束を薙ぎ払い、血走った目で怒鳴り散らした。
「惑わされるな! 全て確認しろ! 斥候を出せ! 正確な位置を特定するんだ!」
だが、一度狂った歯車は噛み合わない。
現場の混乱は収拾がつかず、ヴィクトルが望んだ「静かで迅速な処刑準備」は、喧騒と疑心暗鬼の渦にかき消されていく。
彼の完璧だった盤面は、無数の黒い染みによって汚され、盤面の全容が見えなくなっていた。
窓の外、吹き荒れる風の音が、まるで彼を嘲笑う誰かの忍び笑いのように聞こえた。
ヴィクトルは眼鏡を外し、疲労に滲む目を指で押さえた。




