第303話:『玉座の追憶、毒蛇の帰還』
帝都皇宮、皇帝の執務室。
夜の帳が下り、部屋を照らすのは暖炉の赤い炎と卓上のランプの灯りのみ。その揺らめく光が対峙する二人の男の顔に深い陰影を落としていた。
皇帝ゼノンはもたらされた報告書をデスクの上に放り投げた。乾いた音が重苦しい静寂を破る。
「……『覇王』か」
ゼノンが低く呟く。その響きには嘲笑とわずかな警戒の色が混じっていた。
「北の蛮族どもが随分と大きく出たものだ。……だがアルバートよ。余が気になったのは、その猿山の王の名ではない」
傍らに控える宰相アルバートは静かに頷いた。彼の表情はいつもの冷静な仮面の下に苦い過去の澱を沈めているようだった。
「……御意に。問題は、その背後。クルガンの参謀と目される男の情報でございましょう」
アルバートは手元の紙を一枚指先で弾いた。
「帝都訛りの言葉遣い。冷徹にして緻密な軍略。そして……『ヴィクトル』という名」
その名が口にされた瞬間、室内の空気が数度下がった気がした。
ゼノンは目を細め天井の装飾を見上げるようにして、遠い記憶の糸を手繰り寄せた。
「ヴィクトル・フォン・ローゼンベルク……。懐かしくもあり、忌まわしくもある名だ」
かつて、この帝都には二人の天才がいた。
一人は国を富ませ民を安んじる「守り」と「治世」の才を持つアルバート。
もう一人は謀略と恐怖によって他国を併呑し版図を広げる「攻め」と「乱世」の才を持つヴィクトル。
若き日のゼノンが次期宰相を選ぶ際、ヴィクトルは自信に満ちた顔で進言したのだ。
『陛下。力こそが秩序。恐怖こそが統率。私にお任せいただければ、隣国の王族を内部から崩壊させ、その首を陛下への手土産にいたしましょう』と。
ゼノンは短く鼻を鳴らした。
「あの時、余は奴に言ったな。『不要だ』と」
「はい。陛下は即座に断じられました。『民の血を啜って肥え太る覇道など、余の望む帝国ではない』と」
自身の才覚と哲学を全否定されたヴィクトルが見せたあの凍りつくような屈辱の表情。それを最後に、彼は自らの莫大な財産と共に帝都から姿を消した。
まさか北の凍土で自らの理想を実現させるための「凶器」――クルガンという若き覇王を見つけ出していたとは。
「……厄介だな」
ゼノンは葉巻に火を点け紫煙を吐き出した。
「奴の知略は本物だ。人の心の闇を突き疑心暗鬼の種を蒔くことにかけては右に出る者はおらん。クルガンという暴力装置にヴィクトルという悪意の頭脳が乗ったか。……最悪の組み合わせと言える」
アルバートもまた、眉間に深い皺を刻んでいた。
「奴に自由な手腕を振るわせれば、北方は一枚岩となり帝国への侵攻はこれまでとは比較にならぬほど陰湿で苛烈なものとなりましょう。……まともにぶつかればこちらもただでは済みませぬ」
重い沈黙が流れる。
だが、その沈黙を破ったのはゼノンの唐突な問いかけだった。
「――それで? アルバートよ。そなたは思うか?」
皇帝の瞳が悪戯っぽく、しかし鋭く光った。
「そのヴィクトルの詐術とやらは……あの『天翼の軍師』のそれを上回ると思うか?」
その問いにアルバートは一瞬虚を突かれ、次いで堪えきれないように口元を緩ませた。
彼の脳裏にあの規格外の少女の顔が浮かぶ。
ヴィクトルが人の「恐怖」と「猜疑心」を計算して罠を張るのに対し、あの少女は「食欲」と「損得」と「笑顔」で盤面そのものをひっくり返す。
「……ふっ、くく……」
宰相ともあろう者が肩を震わせて笑いを漏らした。
「陛下……。それは毒蛇が猛禽に挑むようなものかと」
「ほう?」
「ヴィクトルの策はあくまで『常識的な人間』の恐怖心に基づいています。ですがリナ殿の思考はその前提を軽々と飛び越えていく。毒を盛ろうとしたら、気が付いたときには良く効く薬に調合され直されて有意義に活用されていた、などという結末が目に浮かびます」
アルバートは眼鏡の位置を直し、確信を込めて言った。
「……飲み込まれるのがオチかと思われますが」
「くくく! 違いない!」
ゼノンは膝を叩いて哄笑した。
「奴が一生をかけて磨いた謀略が小娘の『ケーキ』一つに粉砕される様……。ああ、この目で見たいものよ!」
ひとしきり笑った後、ゼノンはスッと真顔に戻った。
王者の顔で、宰相に命じる。
「だが備えはしておくべきだ。ヴィクトルはプライドが高い分、傷つけられれば執念深い。リナが奴の想定外の動きをすればするほど、奴は狂気じみた手に出るやもしれん」
「御意。……では、ヴィクトルに関する詳細な資料をまとめ、北壁へ送りますか?」
「ああ。無用かもしれんが情報は武器だ。奴の人となり、過去の手口、そして何より……」
ゼノンは煙を吐き出しながらニヤリと笑った。
「奴が『己の才覚を否定されること』を何より嫌うという、その最大の弱点を教えてやれ。リナならば、そこを無自覚にかつ的確に踏み抜くであろうからな」
アルバートは恭しく一礼した。
「承知いたしました。……かつてのライバルの引導を渡す役目、若き軍師殿に託すとしましょう」
帝都の夜は更けていく。
だが二人の顔には、北の脅威への不安よりも、これから始まるであろう奇想天外な戦いへの確かな期待が浮かんでいた。




