第302話:『祝宴の亀裂、古狼の不在』
建国の儀を終えた夜、覇王の居城となる巨大なゲルの中はむせ返るような狂乱の渦中にあった。
中央で轟々と燃え盛る巨大な焚火が、獣の脂が焼ける香ばしくも重苦しい匂いを撒き散らしている。滴り落ちる脂が火に触れるたびパチパチと不吉な音を立てて火の粉が舞った。
その周囲を囲むのは、今日「将軍」や「長官」という新たな地位を得た有力部族長たちだ。彼らは毛皮の上にどっしりと座り込み、血のように赤い蒸留酒を獣のような剥き出しの笑顔で煽っていた。
「がっはっは! これで帝国も終わりだ!」
「次の侵攻では、白い石の壁を真っ赤に染めてやるわ!」
下卑た笑い声と肉を食らう音が響き渡る。だが、その喧騒から一段高い玉座に座るクルガンの周囲だけは不気味なほどに凪いでいた。
彼は黄金の杯を片手に一口も酒に手をつけず、一点を凝視していた。
宴の席にぽっかりと空いた、「三つの席」。
それは、帝国の国境を直接見据える最前線の部族――『風』『土』『森』の族長たちのために用意されたはずの場所だった。
「……南の三匹はまだ来ぬのか」
地を這うような低い声。隣に控えていた側近の顔が瞬時に土色に変わる。
「はっ……。それについては書状が届いておりました。……バラク、ゴード、エルラ、三名からの連名にございます」
側近が震える手で差し出した書状を、クルガンは乱暴に奪い取った。
そこには殴り書きのような、それでいて異様に丁寧な文言が並んでいた。
『――覇王陛下、建国の大業心より祝し奉る。馳せ参じたいのは山々なれど無念。我ら南の三部族、未だ原因不明の悪疫に苦しみ、兵士の半数が床に伏しております。動ける者も飢えに苦しみ、今はただ死を待つ有様。どうか回復の猶予を……』
読み進めるにつれ、クルガンのこめかみに浮き出た血管が生き物のようにドクドクと脈打ち始めた。
「……ふん」
大きな手が書状を無造作に握りつぶした。
「建国のこの祝賀に、祝いの酒一本すら持ってこられぬとは。病ごときで弱音を吐く腰抜けどもに我が覇国の最前線を任せていたとはな」
彼は握りつぶした紙を、目の前の焚火の中に投げ捨てた。
炎が紙を舐め、一瞬で黒い灰へと変える。その様子を他の将軍たちが嘲笑を浮かべて眺めていた。
「所詮は辺境の腰抜けよ」「我らだけで帝国を蹂躙するには十分ですな」
クルガンもまた冷酷な決断を下そうとしていた。
使い物にならぬ駒は部族ごとすり潰して再編すればいい。
バサリッ!
ゲルの入り口の重い幕が跳ね上がり、一人の男が転がり込むように滑り込んできた。
覇国直属の調査官。その外套は泥と汗にまみれ呼吸は荒く、目は緊張に見開かれている。
「報告……いたします! 南方、バラクたちの領地より……密偵が先ほど戻りました!」
「騒々しいぞ。奴らの惨状を死体の数でも数えてきたか?」
クルガンが乳酒を口に含みながら億劫そうに問う。
だが、調査官の口から出た言葉は、その場の全員の予想を裏切るものだった。
「い、いえ……それが……」
調査官は困惑し、言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「密偵の報告によれば……バラクたちの領地では病人の姿などほとんど見られず、むしろ急速に活気を取り戻しているとのこと! 野営地からは絶えず炊事の煙が上がり、子供たちは走り回り……食糧事情も劇的に改善しているように見受けらたとのことです!」
ガシャアンッ!!
クルガンの手から黄金の杯が床の毛皮へ叩きつけられた。
床に広がった赤い酒が揺れる火に照らされて血の海のように広がる。
宴の喧騒がぴたりと止んだ。
「……どういうことだ」
クルガンが立ち上がる。その顔は怒りと殺意によって夜叉のごとく歪んでいた。
「病が治ったのなら、なぜ祝賀に来ぬ! 飢えているはずの奴らが、なぜ笑っておる!」
彼の脳裏に、先ほど炎の中に消えたの手紙の内容が蘇る。
「略奪もせず、どこから食糧が湧いて出た……? どこの誰が、我が目を盗んでバラクたちに手を貸した!」
覇王の咆哮がゲルを揺らし将軍たちが震え上がる中。
クルガンの座る玉座の影、闇に溶け込むように控えていた男だけが動じていなかった。
ヴィクトル・フォン・ローゼンベルク。
彼は神経質そうな指で眼鏡の位置を直すと、その冷たいレンズの奥で感情のない瞳を光らせた。
(……略奪なしでの物資の回復。考えられるのは、外部からの支援あるいは交易のみ)
(だが相手は誰だ? 帝国か? あり得ない。あの堅物どもが蛮族と手を組むなど。……では、第三者か?)
彼は激昂する主君の背中を見つめながら、静かに思考の駒を進め始めた。
古狼バラクが、ただ嘘をついて保身に走るような小物ではないことを彼は知っている。ならば、その背後に何がいるのか。
(……面白い。盤上の駒が、勝手に意思を持って動き始めている)
その事実に、ヴィクトルの口元が微かに冷酷に歪んだ。
そして、その騒ぎを給仕のふりをして見つめる老人の影――エノクの目が、静かに光ったことには誰も気づいていなかった。




