第290話:『狼たちの天秤、傾く刻』
帝国側、司令官天幕。
そこは突如として戦場の様相を呈した。
『――集落を完全に包囲封鎖せよ』
セラの切羽詰まった声が『囁きの小箱』から響いた瞬間、地図盤を囲んでいたシュタイナー中将は弾かれたように立ち上がった。その巨躯から放たれる覇気が、天幕内の空気をビリビリと震わせる。
「よし来た! すぐに出られる者はわしに続け! 百もいれば十分だ!」
雷鳴のような号令が、天幕を揺るがす。傍らで控えていた副官たちが、即座にそれぞれの持ち場へと散っていく。
「ヘルマン! 後詰の部隊は任せたぞ! 蒸気トラックもいつでも出せるようにしておけ!」
彼は卓上の兜を掴み、頭に被りながら通信機越しのセラと状況の確認を続ける。
「部族の封鎖で良いのだな? 案内の者はどうする!」
『ゲッコー配下の者がそちらへ。その者の案内で!』
「承知した!」
鋼鉄のブーツが床を蹴り、シュタイナーは嵐のように作戦室を飛び出していった。
◇◆◇
一方、族長のゲルの中は、凍てつくような静寂に支配されていた。
バラクは、怒りと疑念に顔を歪める二人の族長を前に、あくまで飄々と言葉を紡いでいた。
「なに、帝国の者だと? うむ。最近、若い者に変わった服装を趣味とする者が何人かおるが、それではないのか?」
彼は呆れたように肩をすくめる。
「我が部族内のこと。直ちに調べさせよう。その間はここで待たれよ。……そうそう、病のことであったな? 最近、画期的なことが判明してな」
「そのような悠長なことを言っている時ではない!」
ゴードが苛立ちを隠さずに吼える。
「なに、ここで騒いでも何も変わらぬわ」
バラクの落ち着き払った態度に、ゴードとエルラは逆に言葉を失う。
「帝国と戦ってみて、私は学んだのだ。目先の動きに囚われ、急ぎ事を起こした結果が、あの惨状を招いた。……我らがすべきは、クルガンの動向を見極め、柳に風と受け流し、いかに時間を稼ぐか。そうすべきであったとな」
「そうは思われぬか? 我らは騎馬の民。一所に定住しておるわけではない。常に移動しておれば、正確には把握されぬよ」
「しかし!」エルラが鋭く切り込んだ。「現に殆どの部族は、事実としてクルガンの支配下にあるではないか!」
「おお、それはそうであるが。……うむ。さらに良く考えねばならぬな」
バラクのあまりに呑気な返答に、ついにゴードの堪忍袋の緒が切れた。
「見損なったぞ! 貴殿においても、クルガンの指示に従い、帝国に攻め入る必要があると共に判断したではないか!」
「うむ。それが性急すぎたと後悔しておるのだ」
バラクはため息をついた。
「主らは、ひょっとして帝国に勝てると思うておるのか?」
「……むぅ!」
その問いに、二人の族長はぐっと押し黙る。
バラクはその隙を見逃さなかった。
「……食事の準備をさせておく。まずは調査に行った者の報告を待とう。……すまぬが、少し席を外させていただく。その間に考えてみてくれ」
彼はそう言うとゲルから出て行った。
一人になった彼はアランからの使いと接触する。
『――アラン様からです。『軍師殿に部族の包囲を許可した』とのことです』
その報告にバラクの口元に不敵な笑みが浮かんだ。
(……ふん。ならば、覚悟せねばならんな)
(天翼の軍師、どうして打つ手がこうも速い)
(こうなれば、二部族の族長もここで腹を決めさせるしかないか)
(……悪くはないか。どちらにしても、八方塞がりだったのだ。それは、彼らも同じこと)
(これは……そうだな。すでにあの嬢ちゃんの掌の上か。可愛い顔して、実に怖いのぉ……)
「……アランに伝えよ」
バラクは覚悟を決めた。
「『私は腹をくくった。主も腹をくくれ。そして、この状況を最大限に利用せよ。利用されるだけになるな』、と」
彼の言葉を受け、使いは闇へと消えた。
バラクは再びゲルへと戻る。盤上の駒としてではなく、自らの意志で動くプレイヤーとして。




