第32話:『ただいま、私の家へ』
帝都での、息が詰まるような祝賀行事が一段落したある日。
私は、グレイグとセラに、一つだけ、わがままなお願いをした。
「……少しだけ、お休みをください。……帰りたい、場所があるんです」
私のその言葉に、二人は何も聞かなかった。ただ、グレイグは「……分かった。三日だけだ。それ以上はやらん」とぶっきらぼうに言い、セラは「私が、お供します」と静かに微笑んだだけだった。
皇妃陛下も、この一時帰省を快く許可してくださった。「あの子たちに、たくさんお土産を持って行ってあげなさい」と、馬車一台分にもなる、山のようなお菓子や玩具まで用意してくれた。
そして、私は、数ヶ月ぶりに、あの聖リリアン孤児院の古びた門の前に立っていた。
軍の立派な馬車ではなく、わざわざ借りた、目立たない普通の馬車で。
セラさんだけを伴い、私は、深呼吸を一つして、ゆっくりと門を叩いた。
「はい、どなたです……って、あら……?」
扉を開けてくれたのは、見慣れた顔のシスターだった。彼女は、少しだけ綺麗な服を着た私を見て、一瞬、誰だか分からなかったようだが、やがて、その目を見開いた。
「……リナ!? あなた、リナなの!?」
「ただいま、戻りました。シスター」
私がそう言って微笑むと、彼女は「まあ、まあ!」と涙ぐみながら、私を強く抱きしめてくれた。
その声を聞きつけて、院の奥から、院長先生が駆けつけてきた。
「リナ! 本当に、あなたなのですね……!」
「院長先生……。ご心配をおかけしました」
「いいえ、いいえ! 無事で、本当に……本当に、良かった……!」
院長先生も、涙で言葉にならないようだった。
そして、その騒ぎに、子供たちがわらわらと集まってきた。
「リナだ!」「リナが帰ってきた!」
「わーい! お菓子は!? ケーキは持ってきた!?」
年少の子供たちは、私の周りを取り囲み、歓声を上げる。年長の子供たちは、少しだけ大人びた、でも、再会を心から喜ぶ表情で、私を迎えてくれた。
私の心の中に、温かいものが、じわじわと広がっていく。
ああ、そうだ。ここが、私の家だ。私が、守りたかった場所だ。
私は、皇妃陛下から預かった、山のようなお土産をみんなに配った。
子供たちの、キラキラした笑顔。頬張ったケーキに、「美味しい!」と声を上げる、幸せそうな顔。
その一つ一つが、私の心を、ゆっくりと癒やしていく。
英雄の重圧も、戦いの罪悪感も、この場所では、少しだけ忘れることができた。
その夜。
私は、昔使っていた、自分のベッドで眠った。少しだけ窮屈に感じるのは、私が成長したからだろうか。
隣では、一番年下だったアンナが、私の手をぎゅっと握って、安心したように寝息を立てている。
私は、この温もりを、この平和を守るために戦ってきたんだ。
その事実を、改めて、強く、強く実感した。
偽善でも、人殺しでも、何でもいい。この子たちの笑顔が守れるのなら、私は、もう一度、あの仮面を被って戦える。
翌日、私は、院長先生に、これまでの給金で貯めた、なけなしの金貨袋を渡した。
「これで、みんなの冬服と、新しいストーブを買ってください」
「リナ……。あなた……」
院長先生は、また涙ぐんでいた。
「私は、大丈夫です。あっちには、私をすごく大切にしてくれる、お父さんみたいな人と、お姉さんみたいな人がいるから」
グレイグとセラの顔を思い浮かべながら、私は、心からそう言えた。
三日間の、夢のような時間は、あっという間に過ぎ去った。
出発の日。孤児院のみんなが、門の前で見送ってくれる。
「リナ、また帰ってきてね!」
「今度は、もっと大きいの、やっつけてこいよな!」
「怪我、しないでね……」
みんなの声援に、私は、笑顔で手を振った。
「行ってきます!」
馬車が走り出し、遠ざかっていく孤児院を見ながら、私は、もう泣かなかった。
私の心は、温かいもので、満たされていたから。
隣に座るセラさんが、そっと私の手を握ってくれた。
「……良い、場所ですね」
「はい。私の、宝物です」
馬車が帝都へ向かう道すがら、私は、セラさんに言った。
「セラさん。帰りましょう。私たちの、戦場へ」
私の瞳には、もう迷いはなかった。
守るべきものがある。帰る場所がある。
それだけで、人は、どこまでも強くなれるのだ。
小さな少女は、しばしの休息を終え、再び、英雄の仮面を被る。
だが、その仮面の下の素顔は、以前よりも、ずっと、ずっと力強く、輝いていた。