第31話:『望まれぬ凱旋と英雄の重圧』
東部戦線に響き渡っていた鬨の声と鋼の音は、いつしか止んでいた。
二度にわたる大勝。それはガレリア帝国に、ここ数十年で最も眩い栄光と、血の匂いが洗い流されたかのような、つかの間の平穏をもたらした。
私が撒いた「毒」は、静かに、だが着実に国境を蝕んでいた。王国軍の無能さを嘆く声。帝国の軍師が示したという不可解なほどの「慈悲」。重税と敗戦に打ちひしがれた王国の民の間で、それは諦観と不信の種となり、芽吹き始めていた。帝国への憎悪よりも先に、自らの王への疑念が心を占め、あれほど荒れていた国境は、嘘のように静まり返っていた。
戦線の膠着は、帝都からの新たな勅令を運んできた。
多くの者が予期していた通り、それは歴史的勝利を祝う、大規模な凱旋式の開催を告げるものだった。
執務天幕に、羊皮紙を広げる乾いた音が響く。
「――東部戦線の将兵、及び、救国の英雄『謎の軍師』は帝都へ帰還し、民衆の祝福を受けよ」
最後の一文を読み上げたグレイグ司令官は、革の椅子に深く身を沈め、戦場の埃と疲労を吐き出すような、重い溜息を落とした。
「……まあ、そうなるだろうな。民の士気を最高潮に保つには、これ以上ない催しだ」
その視線が、天幕の隅に鎮座する豪奢な輿へと向けられる。勝利の象徴であり、私にとっては鳥籠に等しい、あの輿へ。
「……というわけだ、軍師殿。また帝都では、この馬鹿でかい籠に揺られてもらうことになる」
赤い帳の奥から、私の小さな、しかし鉛を飲み込んだように重い溜息が漏れた。
(また、あれを……)
帝都で味わった、無数の視線が肌を刺すようなあの感覚。己の知らぬ間に作り上げられていく伝説への居心地の悪さ。そして何より、多くの命を散らした戦の勝利を、「祭り」として祝うことへの、拭いがたい抵抗感が胸の底に渦巻いていた。
私の気配を察したのか、セラ副官が心配そうに帳の隙間から声をかけてくる。
「リナ、顔色が……。無理でしたら閣下にお願いして、あなただけでも……」
「……いえ、大丈夫です、セラさん」
私は静かに首を横に振った。
「これも、軍師の仕事ですから」
そうだ。私はもう、ただの書記官リナではない。帝国の期待を一身に背負う『天翼の軍師』であり、民が作り上げた『慈悲の女神』なのだ。この役を、今さら投げ出すことは許されない。
数週間後、私達が帝都へと向かう街道は、前回とは比較にならない熱狂に染まっていた。
土壁の家々から老いも若きも顔を出し、その手が投げる色とりどりの花びらが、まるで吹雪のように舞う。古びた帝国の旗が振られ、「軍師様、万歳!」という、地鳴りのような歓声が空を揺るがした。
帝都の巨大な城門をくぐると、その熱狂は頂点に達した。
道は、私達の凱旋を一目見ようとする民衆で埋め尽くされている。揺れる人々の頭、振り上げられる無数の腕。その熱気が陽炎のように立ち上り、王宮へ続く石畳の道は、もはや人の海に沈んで見えなかった。
パレードの先頭を、グレイグ司令官が胸を張って馬を進める。
その後ろを、四頭の白馬に引かれた私の輿が、波間を漂う小舟のように続く。民衆の渇望にも似た視線が、その一点に突き刺さっていた。
「あれが、軍師様が乗られているという『賢者の御座』か!」
「おお……なんと神々しい……」
「軍師様! どうか、お姿を!」
私は帳の奥で、その熱狂から逃れるように、ぎゅっと目を閉じた。
(やめて……そんな目で、私を見ないで……)
私は英雄じゃない。神様なんかじゃない。
前世の知識を少しばかり持っていただけ。多くの人を欺き、罠に嵌め、結果として、数えきれない命を奪っただけの、ただの小娘なのに。
人々の純粋な賞賛と、おぞましい自己評価との乖離。
その重圧が、やすりのように私の心をじわじわと削っていく。
この役を、いつまで。
この仮面を、いつになったら外せるのだろう。
パレードが終わり、王宮での祝賀会が始まっても、私の心は鉛色のままだった。
豪華な食事が並び、美しい音楽が流れる広間を遠くに感じながら、私は一人、与えられた控えの間で、静かに窓の外を眺めていた。
その背後に、ふわりと、花の香りがした。
音もなく、皇妃セレスティーナ陛下が入ってきていた。
静まり返った部屋に、ふわりと甘い花の香りがした。
衣擦れの音に顔を上げると、いつの間にいたのか、月明かりを背にした彼女が立っていた。
「……お疲れ様、私の小さな軍師様。ひどく、やつれたお顔ですわね」
セレスティーナ様が、音もなく隣に腰を下ろす。
その細い指が私の髪に触れ、縺れを解くように優しく梳いた。
「……セレスティーナ様」
か細く漏れた声は、自分のものではないように乾いていた。
「お辛いでしょう。あなたが望んだわけではない、英雄という名の重い鎧をまとわされるのは」
その声は、まるで心の奥底まで見透かしているようだった。
張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れる。
気づけば私は、彼女の胸に顔をうずめていた。声を殺し、子供のようにただ肩を震わせる。喉の奥で嗚咽を噛み殺すたび、身体が小さく痙攣した。
「……私は、英雄なんかじゃ、ありません……。ただの、人殺しです……」
皇妃は何も言わず、私の小さな背中を、あやすようにゆっくりとさすり続けてくれる。絹のドレスに染みていく涙の熱と、彼女の手の温かさが、凍てついた心にじわりと沁み渡っていく。
「ええ、存じていますわ。あなたは英雄などではない。……誰よりも優しくて、誰よりも臆病で、そして誰よりも多くのものを背負ってしまった、ただの女の子」
やがて彼女は私の顔を覗き込み、濡れた頬を指で拭うと、凛とした声で告げた。
「でも、忘れないで、リナ。あなたのその“偽善”と“罪悪感”が、今この帝国を救っているのです。……辛いでしょうけれど、もう少しだけ、その仮面を被り続けてちょうだい。全てが終わった時、その仮面を脱がせて差し上げるのは、この私の役目ですわ」
その言葉は、ずしりと重かった鉛の心を、少しだけ軽くしてくれた。
けれど、その「全てが終わる時」は、一体いつ訪れるというのだろう。
不意に、遠くで厳かな鐘の音が空気を震わせた。
それを合図にしたかのように、窓の外の喧騒が地鳴りのような大歓声へと変わる。
何事かと窓辺へ寄れば、王宮の広大な庭園に設えられた巨大な噴水が、まるで意思を持つ生き物のように咆哮を上げ、天高く水を噴き上げていた。
夜空に舞い散る無数の水滴が、月光と松明の灯りを浴びて、砕けたダイヤモンドのように乱反射する。帝都のあちこちに立つ水の柱がその光を捉え、幾重にも屈折させて、闇夜に淡い虹色の光のカーテンを揺らめかせた。
水の魔法が生み出した、儚くも壮大な光の祝祭。水が弾ける微かな音と、民衆の熱狂した声が、ここまで届いてくる。
それは、あまりにも美しく、そして、あまりにも物悲しい光景だった。
水と光が織りなす一瞬の幻は、まるで人々が私に抱く幻想そのもののように見えたから。