【ver.改訂前】第284話:『老将の問い、騎士の目覚め』
夕陽が砦の石壁を赤黒く染め、練兵場に長い影を落としていた。
兵士たちの訓練が終わった後の静寂をひゅっと風を切る音だけが繰り返し引き裂いている。
ゼイドは一人無心で素振りを繰り返していた。その手にあるのは剣ではない。孤児院の少年トムから託されたただの木の枝だ。
風を切る音は鋭くともその剣筋には迷いが滲んでいた。
(俺もあの男と何も変わらないではないか……)
脳裏に蘇るのは監査官アイゼンハルトの姿。己の物差しだけで人を測り、その本質を見ようともしない傲慢な若さ。かつての自分の姿がそこに重なって見えた。
守ると誓ったはずなのに自分はまだ何も見えていない。
その無力感がトムから託された木の枝を鉛のように重くしていた。
「どうした。随分と悩んでおるな」
不意に背後からかけられた声にゼイドは弾かれたように振り返った。いつの間にかシュタイナー中将が音もなくそこに立っている。
「その枝では熊の一匹も狩れんぞ」
その悪戯っぽい言葉にゼイドは素振りを止め、意を決した。彼は木の枝を両手で握りしめると中将の前に進み出て深く頭を下げた。
「中将閣下。私にリナ殿のお力になれることはないのでしょうか」
その声は悔しさに震えていた。
「ただ剣を振るうだけでは私はあの人の隣に立つことすらできない……!」
シュタイナーはその若い葛藤を豪快な笑い声で吹き飛ばした。
「がっはっは! わしですら見守ることしかできぬというのに、何を思い上がっておるか」
だがすぐにその岩のような顔から笑みを消し、真剣な眼差しでゼイドを見据えた。
「残念ながら今の主らにできることは見守り、学び取ることだけだろう。だが考えることをやめてはならぬ」
シュタイナーは砦の壁の向こう、夕陽に染まる広大な北の荒野を指し示した。
「いいか、ゼイド。真の騎士とはただ強いだけではない」
その声は地を這うように低く重い。
「守るべき民の心を知り、敵の意図を読み、そして何より主君の孤独に寄り添う者だ」
彼はゼイドの瞳の奥を射抜くように続けた。
「そうさな。そなたは武を極めんとする者。ならばただ彼女の剣となるだけではない。彼女が盤上で駒を動かす時その一手、二手先に潜む危険を誰よりも早く察知し、物理的にそれを排除する『目』となれ」
「あるいは彼女が下した非情な決断の裏にある痛みを理解し、その心を支える『盾』となれ」
「彼女の行いに対しただ従うのではなく、一言でも良い『助言』ができるようになることを目指してみたらどうだ。……それにはただ剣を振るうだけでは到底足りぬぞ」
その言葉の一つ一つがゼイドの心に深く鋭く突き刺さった。
そうだ。自分はただ彼女の強さに圧倒され、守られるばかりだった。彼女の孤独に、その痛みに寄り添おうとさえしなかった。
彼は固く固く拳を握りしめた。
◇◆◇
その夜北方諸族の二つの部族は重い沈黙に包まれていた。
『赤土の民』と『黒森の民』。先の戦で帝国に敗れ、ただあらゆるものへの憎しみを募らせていた彼らの元にバラクからの使者としてアランが訪れたのだ。
その手には、薬草として加工された『星影草』と良質な塩、そして鉄があった。
「これは施しではない。対等な『取引』だ」
アランの言葉に二人の族長は驚き困惑した。
バラクが族長を務める『風読む民』では病が癒え、子供たちの笑顔が戻っているという噂は風に乗って彼らの耳にも届き始めていた。クルガンへの恐怖とバラクが示す未知の可能性との間で彼らの心は大きく揺れ動く。
バラクが帝国と繋がっているとは夢にも思わず、彼が新たな交易路を開拓したのだと信じ込んでいる。
熟慮の末二人の族長は密かに会談することを決意した。
「バラクの奴一体何を企んでいるのか」
「奴は変わった。どこでこれほどの品を手に入れたのだ。……その秘密をこの目で確かめる必要がある」
北方諸族の間に新たな風が吹き始めていた。




