第30話:『焦燥の英雄と王宮の不協和音』
勝利の祝賀に沸いた数ヶ月前が嘘のように、アルカディア王国の王都は重く淀んだ空気に沈んでいた。東部戦線での二度に渡る歴史的な大敗。その報は、帝国を侮っていた民衆と貴族たちの心に、冷たい杭となって打ち込まれた。
そしてその敗北は、王国の双璧たる二人の英雄――『剣聖』ハヤトと『聖女』マリアの関係にも、修復不能な亀裂を刻みつけていた。
「……まだ分からんのか! 帝国の『謎の軍師』とやらの正体は!」
獣のような怒声が、王宮の一室を震わせた。ハヤトの剣幕に、対峙する諜報部の長官は滝のような脂汗を流し、ただ震えている。
あの『鳥もち地獄』での屈辱的な敗北以来、ハヤトは変わった。かつての傲岸なまでの余裕は消え失せ、その瞳の奥には復讐心という名の暗い炎が常に揺らめいている。軍の再編もままならぬうちから、彼は何度も単独で帝国領へ潜入を試みては、無人の荒野に拳を振り下ろすような空振りばかりを繰り返していた。
「も、申し訳ございません、剣聖様! 敵の軍師は常に赤い帳の輿に座し、決して姿を現さず……。その正体は帝国軍でもごく一握りの最高幹部のみが知る最高機密とのことで……」
「言い訳はいい! 屑どもが!」
ゴッ、と鈍い音が響く。ハヤトが叩きつけた机が悲鳴を上げた。
その様を、部屋の隅で冷ややかに眺める影があった。マリアだ。
カチャリ、とティーカップをソーサーに戻す乾いた音だけが、怒声の余韻を断ち切る。
「……ハヤト様。少しお気を鎮めになられては? あなたがそうして苛立っておられる間にも、帝国の『慈悲の女神』の噂は広まる一方ですわよ」
優雅な所作とは裏腹に、その声には刺が含まれていた。
「慈悲の女神、だと……? 笑わせる。敵兵の治療など、偽善もいいところだ」
ハヤトは吐き捨てるように言った。
「あら、けれどその“偽善”のおかげで、民の間では『帝国の聖女様こそ本物の慈悲をお持ちだ』なんて囁かれていること、ご存じかしら?」
マリアの言葉に、ハヤトがぎろりと彼女を睨みつける。
「……何が言いたい、マリア」
「別に? ただ、あなたが個人的な復讐心に駆られ、無意味な単独行動を繰り返す間に、わたくしの……いいえ、わたくし達の『聖女』としての立場が脅かされつつある。その事実をお伝えしているだけですわ」
視線が交錯し、火花が散る。もはや彼らは、かつて背中を預け合った協力者ではない。互いの矜持と目的のために牽制し合う、ただの競合相手だった。
この不協和音は、王宮全体を蝕んでいた。
先の敗戦で多くの古参将軍が失脚し、軍の威信は地に墜ちた。その空白を埋めるように台頭してきたのは、「英雄様に頼り切ったから負けたのだ!」と声高に叫ぶ、新たな反・転生者派閥の貴族たちだ。彼らはハヤトたちの作戦にことごとく異を唱え、軍の再編を遅滞させている。
国王と宰相は、もはや頭を抱えるしかなかった。ハヤトとマリアは国の英雄というよりも、制御不能な劇薬と化していた。力は必要だが、用いれば国内の亀裂がさらに深まる。
王国は、帝国と戦う以前に、内側から静かに崩壊を始めていた。
そんなある日。苛立ちを募らせるハヤトの元に、一人の男が面会を求めてきた。先の戦で失脚したバルガス将軍の元側近だった。
「剣聖様。このままではこの国は、無能な文官どもと臆病な貴族共に滅ぼされます」
男は深く頭を垂れ、絞り出すように言った。
「我ら武人こそが、この国を立て直すべきです! どうか、我々にお力をお貸しください!」
「……お前たちに、俺の力が扱えるのか?」
ハヤトはそう問いながらも、その口元には獰猛な笑みが浮かんでいた。
一方、マリアもまた水面下で動いていた。
彼女は息のかかった神官や修道女たちを難民や巡礼者に偽装させ、次々と帝国領内へ送り込む。彼女たちの目的は戦闘ではない。帝国の『慈悲の女神』の情報を集め、その噂の真偽を確かめ、可能であれば正体を暴き、失脚させること。聖女の名を汚す偽善者を、自らの手で裁くために。
二人の英雄は、それぞれ別の刃を研ぎ澄まし、帝国の、そしてリナの足元へ新たな罠を仕掛けようとしていた。
王国がもはや一枚岩ではないことを、帝国側はまだ知らない。
そして、その不協和音から生まれ落ちる次なる混沌が、すぐそこまで迫っていることを、リナもまた知る由もなかった。




