第256話:『荒野の刃、知識の楔』
「お初にお目にかかる、『天翼の軍師』殿で宜しいか?……して、我らとの未来とは、一体何を語られるおつもりかな」
風に乗って届いた声は、地を這うように低く重い。
私は動じない。ただ静かに、その挑戦的な視線を受け止めた。仮面の下で乾いた唇をそっと舐める。ここからは言葉の戦場だ。
脳裏に浮かぶのは、ゲッコーからもたらされた断片的な情報と、前世で読み耽った数多の戦術書、そしてその知識を活かして夜を徹して没頭していた戦略シミュレーションの盤面。
(……状況は酷似している。小規模で散発的な国境侵犯。これは単なる略奪ではない。背後にいる何者かからの『圧力』……あるいは『試験』と見るべきだ。……よみ間違えてはいない筈)
前世のその記憶において、強大な指導者が勃興する際、必ず周辺部族を「試し」、その忠誠と実力を測るという定石があった。
「――バラク殿。貴殿らがかの帝王クルガンに虐げられていることは存じております」
その一言でバラクの顔が微かに強張ったのを、私は仮面の下から見逃さなかった。風が彼の髪を乱し、その瞳の奥に宿る深い猜疑の色を露わにする。
私の推論は確信へと変わっていた。
「かの者は力で全ての部族を束ね、従わぬ者には容赦なく牙を剥く。貴殿らのような古き習わしを重んじる者たちにとって、帝国の脅威以上に、クルガンの圧政こそが喉元に突きつけられた刃なのではありませんか」
「そして帝王は貴殿らに、帝国領への侵攻を強要している。帝国の盾である、我らと戦えと。……違いますか?」
まるで全てを見てきたかのようなその言葉に、バラクは驚愕に目を見開いた。彼の背後に控える戦士たちの間にも、鎧が擦れる音と共に動揺が走った。
「……クルガンが恐れているのは帝国の武力ではない。あなた方のような古き民の結束です。だからこそ、彼はあなた方を帝国とぶつけ、共倒れになることを望んでいる」
私はそこで一度言葉を切り、彼の心を射抜くように続けた。
「――あなた方が欲しているはずの『塩』と『鉄』の交易路を、クルガンはあらゆる手段で独占しようとしているはず。あなた方のような国境沿いの部族には、ひとかけらも渡さぬようにと。……違いますか?」
「その行為は、あなた方を仲間とみているのであればありえない。それは、あなた方一族の消滅を望む者のそれです。……私が語らずとも、お気づきではないでしょうか」
バラクは表情を動かさない。だが、その瞳の奥で狼の光が激しく揺らめいた。背後の戦士たちが息を呑む気配が伝わってくる。アランが鋭い視線で彼らを制したが、一度生まれた動揺はもう私の眼からごまかすことはできない。
彼はしばし黙り込み、やがて全てを諦めたように深いため息をついた。
「……軍師殿。……貴殿の言う通りだ」
私は続けて畳みかけた。
「――そしてバラク殿。あなた方を苦しめるもう一つの脅威。……その原因不明の病についても、私は聞き及んでおります」
私の静かな声に、バラクの顔つきが再び狼のように険しくなった。それはクルガンの圧政と同様に、彼らを苦しめる傷なのだ。
「どのような症状か、詳しくお聞かせいただけますか」
「……なぜ、そのことを」
バラクは値踏みするように私を睨みつけた。
(こちらの内情は筒抜けか……。その上で、なぜ病の症状などという細かいことまで知りたがる? それが敵軍の状況を把握する上で、どれほどの意味を持つというのだ)
「……軍師殿。それを知ってどうなさるおつもりだ」
その問いに、私は仮面の下で静かに、しかし絶対的な確信を込めて告げた。
「その病、あるいは呪いとあなた方が呼ぶものを、終わらせる手立てがあるやもしれぬと考えているからです」
「!」
「ですが、そのためにはまず知らねばなりません。症状、発症の条件、そしてそれがどのようなものなのか。詳しく知らねば、私も判断のしようがない。……私は、あなた方を呪いから解き放ちたい。ただそれだけです」
そのあまりに真っ直ぐで、熱のこもった言葉。
バラクは目の前の仮面の人物の、その奥にある魂の色を見極めようとするかのようにじっと私を見つめていた。風が唸りをあげ、彼の髪を激しく揺らす。疑念、希望、そして長年民を苦しめてきた病への絶望。いくつもの感情がその深い瞳の中で嵐のように渦巻いていた。
やがて彼は観念したように重い口を開いた。
「……分かった。お話ししよう」
彼は語り始めた。土に触れた傷口が黒く壊死し、やがて高熱と共に命を奪っていく恐ろしい病。シャーマンの祈祷も薬草も効かず、ただ死を待つしかない呪いなのだと。
その説明を聞きながら、私の頭の中では前世の知識が高速で検索されていた。
(……破傷風? 壊疽? 症状が似ている……。原因は土中の細菌。だとすれば……)
私は彼の話を遮らず、最後まで聞き届けた後、静かに告げた。
「バラク殿。それは呪いなどではないやもしれません」
「……何だと?」
「それは目に見えぬほど小さな虫が引き起こす病であると考えられます。土を介し、傷口から体に入り、血を汚し、人を死に至らしめる。……故に傷口を常に清浄な水で洗い、神聖な火で炙った布で覆うこと。それだけで多くの命は救われる可能性が高い」
剣でもなく魔法でもない。「知識」という見えざる刃。
バラクの狼のようだった瞳に、次第に動揺の色が深く刻まれていく。
長い対話の末、バラクは深く深く頭を下げた。だがそれはまだ完全な信頼ではない。
「……軍師殿。貴殿の言葉、にわかには信じがたい。だが、もしそれが真実であるならば……。我らは貴殿に大きな借りを作ることになる」
彼は懐から古びた角笛を取り出し、私に差し出した。
「これは我らの言葉を届けるためのもの。もし貴殿から再び話す必要が生じたなら、これを三度鳴らせ。我らは再び貴殿の前に姿を現そう」
私はゲッコーさんに視線を送った。そして頷いたゲッコーは前に進み出てそれを受け取った。
「その者が、今後の仲立ちをさせて戴きましょう。これから未来において互いに光満ちた関係となる事を、期待いたします」
その言葉を受けて「まずは考えさせて頂こう。なに、そうは待たせんし、そなたを敵に回したいとは思わん。……では、また近いうちに」。そして、バラクたちは馬首を返し、荒野の彼方へと去っていく。
夕陽が彼らの長い影を地に落としていた。
バラクは鞍の上で、まだ信じられない思いでいた。
(……あれほどの知識と覚悟。……風の噂に聞く『天翼の軍師』は、確かに美しい少女だとは聞いたが……。本当にあれがそうなのか……?)
その底知れなさに、彼は畏怖と、そして希望の光を感じていた。
荒野の天秤はまだどちらにも傾いていない。だが確かな重みを持った一つの石が、静かに置かれた。
そのことをバラクは肌で感じていた。




