第255話:『盤上の北、狼煙の行方』
場面は北壁の砦に囚われた北方諸族の捕虜たち。彼らの処遇を決める軍議を翌日に控えたその夜までさかのぼります...
私の私室はランプの灯りだけが揺れ、壁に掛けられた巨大な北部の地図に濃い影を落としていた。その前に私は一人、腕を組んで佇んでいた。
先程ゲッコーさんがもたらした報告が、脳裏で熱い鉄印のように明滅している。
『――北方諸族内部での抗争、沈静化の兆し』
『――散発的ながら、複数の部族が統一された動きを見せ始めている』
『――“クルガン”と名乗る指導者の噂。その詳細は未だ不明』
あまりに断片的で不確定な情報。シュタイナー中将でさえ、「ふん、蛮族どもがまた内輪揉めでも始めたか」と気にも留めていなかった。
だが私の思考は別の場所にあった。
前世。眠る間も惜しんで没頭した無数の歴史書とシミュレーションゲームの盤面。その記憶の奔流が目の前の地図の上に重なっていく。
(……同じだ)
ぞくりと背筋に走る悪寒。それは恐怖ではない。確信からくる武者震いだ。
(北の地の群雄割拠の時代が終わる。歴史が大きく動く前触れ……!)
私の思考は数百年、数千年の時を遡る。
ローマがイタリア半島を統一する前夜。戦国時代の日本。そして何よりモンゴル高原を疾駆した蒼き狼、チンギス・カン。
彼らが勃興する前、必ず同じ現象が起きる。小競り合いが頻発し、やがて一つの圧倒的なカリスマの下に全ての力が収束していくのだ。
「“クルガン”……」
その名を乾いた唇でなぞる。
この男がこの世界における北の蒼き狼。間違いない。
(だとすれば彼の次の一手は?)
盤面が頭の中で鮮やかに立ち上がる。
クルガンはまだ全ての部族を完全に掌握してはいないはずだ。必ず彼の覇道に反発する旧来の勢力、伝統を重んじる古狼たちが存在する。
彼らを従わせる最も手っ取り早い方法は何か。
(……共通の敵、か)
そうだ。内向きの不満を外へ逸らす。歴史上幾度となく繰り返されてきた支配者の常套手段。そしてその「敵」として、長年睨み合ってきた我ら帝国以上にふさわしい相手はいない。
(だが全面戦争にはまだ早い。クルガンはまず試すはずだ。己の支配下に入った部族たちの忠誠心と実力を)
その瞬間、全てのピースがカチリと音を立ててはまった。
先日帝国領へ無謀な攻撃を仕掛け、捕虜となった北方諸族。彼らはクルガンの覇道に懐疑的な国境沿いの部族ではないのか。
クルガンは彼らを帝国という巨大な砥石に叩きつけ、その刃こぼれ具合を試している。我らと戦わせ、消耗させ、そして忠誠を誓わぬ者は帝国軍の手によって始末させる。更には帝国の出方、対応力、その実力を知る。まさに一石二鳥、三鳥の非情な策。
(……捕虜たちは捨て駒……)
その結論に至った時、私の心臓を氷の刃が貫いた。
彼らの処遇。帝国の法に則れば鉱山送り。そうなれば彼らの部族は帝国への憎しみを燃え上がらせ、クルガンの思惑通り喜んで彼の尖兵となるだろう。
(駄目だ。それだけは絶対に……!)
私は地図盤の前に崩れるように座り込み、頭を抱えた。
どうすればいい。どうすればこの最悪の連鎖を断ち切れる?
憎しみで返すのではない。恐怖で縛るのでもない。
もっと別の、彼らの心の奥底に直接届くような一手を。
私の思考はさらに深く、盤面の裏側へと潜っていく。
彼らの弱みは何か。クルガンという脅威以外に彼らの心を蝕むものは。
ゲッコーの報告書の片隅に記されていた些細な一文が、脳裏で閃光のように明滅した。
『――近年原因不明の病により、特に幼子と老人の死亡率が上昇傾向にあるとの未確認情報あり』
(……これだ!)
私は弾かれたように顔を上げた。
クルガンがもたらすのは『死』。ならば私が彼らに与えるべきは『生』。
憎しみではなく、慈悲を。剣ではなく、知識を。
彼らの心を力ではなく「借り」で縛るのだ。
部屋に私の荒い息遣いだけが響く。
だがその瞳にはもはや迷いはなかった。
明日軍議で何をすべきか。捕虜たちに何を語るべきか。
そしてその先に待つ荒野の会談で、いかにして古狼の心を揺さぶるか。
全ての筋書きが頭の中で完成していた。
私は静かに立ち上がると、震える指で『囁きの小箱』を手に取った。
王都のグラン宰相へ繋ぐ。
この盤面をひっくり返すための、もう一つの重要な駒を動かすために。
夜明けはまだ遠い。だが私の心の中には、確かな勝利への道筋が一条の光となって差し込んでいた。
抜けていた一話をここで。イメージにはあったのですが、描いていなかったことに気が付いての加筆になります。
作者、しっかりしろよ!との厳しい突っ込み、お待ちしてます♪




