第253話:『狼たちの帰還』
時は少しだけ前にさかのぼる。
乾いた風が吹き抜ける北方の大平原。点在するゲル(移動式住居)から立ち上る炊事の煙が、夕暮れの空に細く頼りなげにたなびいていた。
バラクの部族の野営地は重い沈黙に支配されていた。数日前、帝王クルガンの非情な命令によって帝国との戦に駆り出され、幾人かの若者が帰らぬ人となった。残された者たちの顔には疲労と悲しみが色濃く、子供たちの笑い声さえも聞こえない。
その死んだような静寂を、遠くから響く馬蹄の音が破った。
見張りの若者が張り上げた声に、人々がゲルの影から次々と顔を出す。
「アラン隊長だ! アラン隊長たちが帰ってきたぞ!」
その一言が野営地に命の火を灯した。
一度は死んだと諦めた息子が、夫が、友が生きていたのかもしれない。その一縷の望みが絶望に沈んでいた人々の足を動かした。歓声が上がり、人々が駆け寄っていく。だが、その輪の中心にいたのはボロボロの革鎧に身を包んだアランと、わずか数名の戦士たちだけだった。
期待に輝いていたいくつかの瞳が急速に光を失っていく。安堵の嗚咽を漏らす家族の傍らで、自分の最も帰ってきてほしかった人の姿がないことを悟った人たちが音もなく崩れ落ちた。喜びと悲しみが残酷なまだら模様を描く中、生還した者たちを囲む輪はどこか歪で痛々しかった。
「おお、アラン! 無事であったか!」
駆けつけた族長バラクがアランの肩を力強く掴む。その大きな手は喜びと安堵に微かに震えていた。
「はっ、族長。……この通り五体満足で」
アランは馬から降りると、その場で深く深く頭を下げた。
「俺たちの不甲斐なさゆえ多くの仲間を失いました。……申し訳ありません」
「……いや。お前たちが生きて戻ってくれた。今はそれだけで十分だ」
その夜、野営地の中央で大きな焚火が焚かれた。
久しぶりに肉の焼ける匂いが立ち上り、ささやかな宴が開かれる。生還した仲間を囲み、男たちは酒を酌み交わし、女たちは涙ながらにその無事を喜び合った。だがその光の輪から少し離れた闇の中、焚火に背を向けて肩を震わせる人影がいくつもあった。
その喧騒から離れた族長のゲルの中。
ランプの揺れる光がバラクとアランの真剣な横顔を照らし出していた。アランは帝国での出来事を一言一句違わぬよう克明に語り始めた。
鉄格子の向こうに現れた薬師の娘のような少女。
自分たちの言語を淀みなく話したこと。
そして傷ついた仲間たちを、敵であるにも関わらず手当てしてくれたこと。
「……信じられませんでした……」
アランの声にはまだ畏怖の色が滲んでいる。
「子供の瞳ではありませんでした。全てを見透かされているのではないかと感じられるような……。しかしその言葉は信じても良いと思わされました。ですがひょっとすると、それさえも操られていたのではないかと……」
「そして最後に告げられました。『本日より三日後から三日間、陽が傾き影が最も長くなる刻に、忘れられた神々の遺跡へ。族長と未来の話がしたい』と」
バラクは腕を組み黙って聞いていた。その狼のような瞳がランプの炎を映して鋭く光る。
「……その少女は何者なのだ」
「分かりません。ですが最後にこうも。『そこには天翼の軍師が参る』と。……おそらくあの子供は軍師に仕える巫女か、あるいは密偵のような存在なのでしょう」
その推測にバラクは深く頷いた。それが最も納得のいく答えだった。
「……してアランよ。お前はどう思う。これは罠か?」
「……分かりません。ですが」
アランは一度言葉を切り、真っ直ぐに族長の目を見つめ返した。
「あの子供の瞳に嘘や偽りは感じられませんでした。ただ我らを案じる深い慈悲の色だけが……。そして我らを苦しめるあの病についても何かを知っているようでした」
その一言がバラクの心を揺さぶった。
クルガンの圧政。そしてじわじわと民を蝕む不治の病。二つの絶望に挟まれ、彼らにはもはや選択肢は残されていなかった。
「……同じく戦に敗れた他の二つの部族の様子は」
バラクが静かに問う。
「はっ。彼らも多くの者を失い、今はただ傷を癒やすのに必死かと。ですが帝王クルガンへの憎しみは我ら以上に深いやもしれません」
◇◆◇
アランが去った後、バラクは一人ゲルの外に出た。
宴の喧騒が遠くに聞こえる。彼はそれに背を向け、星空の下で独り佇んだ。
片方の手には帝国との対話という、民の未来を救うやもしれぬ一縷の希望。
もう一方の手には帝王クルガンへの反逆という、部族そのものを滅ぼしかねない破滅の道。
二つの重みが彼の両肩にずしりとのしかかる。
「……たとえこの身がどうなろうと。……民だけは……」
絞り出すような呟きが夜の冷気に溶けて消えた。
彼は決断を下した。アランの目を信じよう。だが族長としての責任が彼に石橋を叩かせる。
「最初の二日間は最も腕の立つ斥候を数名送る。遠くからその『軍師』とやらがどのような者か、その人となりを確かめさせよう。……そしてもし斥候たちの目にも信じるに足る相手だと判断できたならば……三日目、俺が直接会談に臨む」
彼は再び宴の光の輪へと視線を戻した。
その久しぶりに戻ってきた命の輝きを見つめながら、バラクは静かに、しかし鋼のような決意を固めていた。
三日後、あの遺跡へ向かう。
たとえその先に待つのが帝国の刃であろうとも。




