第252話:『荒野の静寂、北の古狼』
約束の日、砦は夜明け前から静かな熱気に満ちていた。
私の私室では、セラさんが眉間に皺を寄せながら、山のような毛皮のマントや厚手の外套を次々と私に当てがっている。
「北の風は侮れません、リナ様。日が落ちれば、気温は一気に下がります」
「で、でもセラさん、これでは重くて動けません……」
私の抗議も虚しく、結局銀狐の毛皮で縁取られた豪奢なマントを纏うことで、ようやく彼女は納得してくれた。その傍らではヴォルフラムさんが私の剣の柄を布で何度も磨き上げている。
厨房ではゲッコーさんが無表情のまま、巨大な革の水筒に湯気の立つ何かを注いでいた。ふわりと漂うスパイスと干し肉の香ばしい匂い。それは彼が夜通し煮込んで作った体を芯から温める特製のスープらしい。隣ではいつの間にか呼び寄せられていた侍女長クララが、手際よく携帯用の焼き菓子を防水布に包んでいる。その包みの一つがこっそりと私のポケットに滑り込まれたのを、私は見逃さなかった。クララさん、グッジョブです!
やがて全ての準備が整い、私たちは砦の門前に立った。
見送りに来たシュタイナー中将。彼は何も言わず、ただ腕を組み、岩のようにそこに佇んでいる。だが、その厳しい貌の奥に宿る眼差しは心配の色に揺れていた。
私が馬に乗り込もうとしたその時。
「……軍師殿」
低い声に呼び止められ、振り返る。
「……これを」
差し出されたのは、彼が長年愛用しているという狼の毛皮でできた無骨な手袋だった。
「……お守りだ」
それだけを吐き捨てると、彼は背を向け砦の中へと一旦戻っていく。その大きな背中がゆれていた。
◇◆◇
午後の陽光が荒野を黄金色に染め、私たちの影を長く長く地に引き伸ばしていた。
『忘れられた神々の遺跡』。長い歳月を経て風雨に削られた石の円環は、傾き始めた太陽の光を浴びて巨大な獣の骨のように物悲しく佇んでいる。
その中央に私はいた。
銀狐の毛皮のマントが乾いた風にはためいている。銀糸のウィッグがその下で微かに揺れ、蝶の仮面が夕陽を鈍く弾き返した。『天翼の軍師』の姿だ。
背後、石柱を背にヴォルフラムとゲッコーが石像のように息を殺して控えている。吹き抜ける風が仮面の縁と彼らの外套の裾を同じように揺らしていた。
約束の初日。
陽が傾き、影が最も長くなる刻まで私たちはただ待ち続けた。時折遠くの丘の稜線に人影が揺らめき、こちらの様子を窺う気配だけが風に乗って届く。
「……見られていますね」
ヴォルフラムが囁く。
「ええ。好きにさせておいてください」
私は静かに応じた。試されているのだ。こちらの覚悟を。
日が沈みはじめてくる頃、私たちは焚火を囲んだ。ゲッコーさんが差し出してくれた温かいスープが凍えた体にじんわりと染み渡る。ヴォルフラムさんは常に周囲への警戒を怠らず、私が寒くないかと自分のマントまで掛けてくれようとした。
二日目も光景は同じだった。
陽が傾く前には三つの影は再び現れ、そして夜の闇が覆うまでただ静かに待ち続けた。
そして最後の日の午後。
地平線の向こうから複数の馬影が陽炎のように揺らめきながら現れた。馬蹄の音はまだ遠い。だが、その静かな接近は確かな意志を伝えていた。
やがて六騎の影が遺跡の前で歩みを止める。先頭に立つのは日に焼けた肌に深い皺を刻んだ歴戦の勇士。北方諸族穏健派部族長のバラクだった。その瞳は荒野の狼のように鋭く、しかし深い思慮の色を宿している。彼の背後にはあの牢で言葉を交わした隊長格の男を含む五人の戦士たちが控えていた。
バラクが馬から降りると、ゆっくりと私の前に進み出た。値踏みするような視線が仮面の上から足元までをじろりと射抜く。
私は動じない。ただ静かにその挑戦的な視線を受け止めた。
「――俺は、北方諸族が一つ、『風読む民』の長、バラク」
彼は自らの名を、風に乗せて告げた。
「お初にお目にかかる、『天翼の軍師』殿、で宜しいか?……して、我らとの未来とは、一体何を語られるおつもりかな」




