第251話:『北壁の目覚め』
その日、北壁の砦は奇妙な熱気に包まれていた。
発信源は、ただ一人。シュタイナー中将その人だった。
練兵場に現れるや否や、地響きのような怒声が砦中に木霊する。
「たるんどるッ! 貴様ら、それでも帝国の北壁を守る兵士か! 走り込みが足りん! あと十周!」
「弓兵隊! 的が動かんからといって油断するな! 実戦では的は動くのだぞ! 走りながら射ってみろ!」
その檄はいつも以上に苛烈で、どこか浮足立っている。あまりの剣幕に、兵士たちは悲鳴を上げながらも必死に食らいつき、副官たちは「中将閣下、本日はいささか……」と困惑の表情で顔を見合わせるしかなかった。
彼はまるで、誰かに己の健在ぶりを、その強さを見せつけようとしているかのようだった。
やがて、その矛先はヴォルフラムへと向かった。
「ヴォルフラム! そういえば、貴様の腕がどれほど鈍ったか見てやらんとな!」
中庭に呼び出されたヴォルフラムは、戸惑いながらも木剣を手に師と向き合う。
私は、その様子をセラさんと共に少し離れた回廊から見守っていた。ユリウス皇子たちも、興味深そうにその後ろに控えている。
シュタイナー中将は、かっこいいところを見せようとするおじいちゃんのように、どこか楽しげに木剣を肩に担いでいた。
「ふん。まあ、軽くあしらってやろう」
だが、彼が木剣を構えヴォルフラムと視線を合わせた瞬間。
その顔から笑みが消えた。
目の前に立つのはもう自分が知る弟子ではなかった。無駄な力が抜け、静かに、しかし鋼のように研ぎ澄まされた気配。その立ち姿はもはや教えを乞う者ではない。対等な、あるいはそれ以上の領域に足を踏み入れた一人の剣士のようだった。
「……良い旅をしてきたようだな、ヴォルフラム」
静かな呟きと共にシュタイナーの纏う空気が一変した。遊びの気配は消え失せ、代わりに戦場の覇気が立ち上る。
「セラ殿。……頼む」
その一言で、セラさんは心得たとばかりにハンカチを高く掲げた。
ひらり、と白い布が宙を舞った。それが地面に着いた瞬間、世界が爆ぜた。
先に動いたのはシュタイナー。大地を蹴る音もなく、その巨躯が信じがたい速度で間合いを詰める。振り下ろされた木剣は、もはやただの木ではない。必殺の質量を伴ってヴォルフラムの頭上へと迫った。
だが、ヴォルフラムはそれを紙一重でいなす。剣が空を切り、風圧が私の髪を揺らした。返す刃は剃刀のようだ。
剣戟の嵐。速すぎる。目で追うことさえままならない。
気が付けばヴォルフラムが師の懐に飛び込み、連撃を叩き込もうとする。だが、それは巧妙に仕掛けられた罠だった。シュタイナーはそれを柳のように軽く受け流すと、がら空きになった胴体へ、岩をも砕く一撃を叩き込もうとする。
誰もが勝負の終わりを確信した、その刹那。
ヴォルフラムの身体が、ありえない動きを見せた。
打撃を躱すのではなく、その衝撃の方向へ自ら跳んだ。轟音と共に吹き飛ばされたかに見えた彼女の身体は、空中で猫のようにしなやかに身を翻し、ダメージを完璧に殺して音もなく着地する。
だがそれよりも前に間髪入れず、シュタイナーが地を蹴っていた。間合いなど存在しないかのように、天から降り注ぐような強烈な一撃。ヴォルフラムはそれを、悲鳴を上げる木剣でギリギリに受け流し、さらに後方へ転がるようにして距離を取った。
二人の剣士が、再び静かに対峙する。
その息詰まる光景に、ユリウスたちは息を呑むことさえ忘れていた。
「……ふははははは!」
沈黙を破ったのは、シュタイナーの腹の底からの哄笑だった。
「見事だ、ヴォルフラム! 実践に勝る稽古はなし、ということか!」
彼は木剣を肩に担ぎ、満足げに頷いた。
「だが、まだまだだ! 貴様に剛剣は期待せぬ! もっと柔らかく! もっと無駄なく! ぬしならその剣の一撃を次の一撃の起こりとし、あと三倍の手数までは増やせよう! 今のワシの攻撃をかわし切れたと満足するな! ぬしの剣はまだ荒く硬い! ふははは! これは、楽しみが出来たわ!」
その顔は、ただの武人ではなく、弟子の成長を心から喜ぶ師の顔だった。
(……ふふ。わしも鍛え直さねばならんな。そう簡単に負けてやるわけにはいくまい)
その圧倒的な二人の強さに、私はただ、ぽかんと口を開けていた。
そして同時に、あのシュタイナー中将と互角に渡り合う彼女が、自分の「盾」であるという事実に、改めて心強さを感じていた。
回廊の柱の影。
ゲッコーは、その全てを無表情に見つめていた。
だがその瞳の奥深く。誰にも気づかれぬ場所で、静かな闘志の炎が音もなく燃え上がっていた。




