第250話:『軍師の憂鬱な朝』
砦の朝は、石壁に反響する練兵の鋭い鬨の声で始まる。
だが、私の耳には届いていなかった。窓から差し込む朝陽が眩しく、小鳥のさえずりが穏やかな朝を告げているというのに、私の心はまだ昨夜の深い闇の中を彷徨っていた。
ベッドの上、上半身を起こしたまま、私は毛布を頭まで引き被って固まっている。
(……どうしよう……)
これから食堂へ行けば、セラさんとヴォルフラムさんに会う。あの二人はあざ笑ったりはないだろう。「リナ様にもあのような一面が…」なんて、どこか温かい目で見守ってくれるかもしれない。きっと気を使って、いつもより一層いつも通りに接してくれるに違いない。
だが、それが辛い! 信頼されているからこそ、完璧な軍師でなければならないのに、あんな無様な姿を晒してしまった! いたたまれなさすぎる!
(そして……シュタイナー中将……!)
あの雷親父にまで見られてしまった。もうおしまいだ。軍師としての威厳も何もあったものではない。今日これから、どんな顔をして会えばいいというのだ。
そうだ。今日はもう、病気を理由に部屋に籠ろう。そうしよう。
(……って、無理だぁぁぁ!)
明後日の会談は私が言い出したこと。そのための最終打ち合わせを、今日のうちに中将としておかなければならない。しかも、『天翼の軍師』として!
昨夜、ベッドの上で芋虫のように悶絶していた私が、今日、あの荘厳な仮面を被って、尊大に「うむ、よきにはからえ」......などと!言えるわけがない! ハードルが高すぎる!
私は再び枕に顔をうずめ、「うー、ううっ!」と唸った。
だが、やらねばならない。
(そうよ! 私は『天翼の軍師』! 帝国の最高顧問なんだから、これくらいのことで動揺していてどうするの! きちんと、役目を果たさないと!)
拳を握りしめ、自分を奮い立たせる。
(……でも、どんな顔して……いや、顔は仮面で隠れてるけど、どんな態度で……)
再び、豆腐メンタルが顔を出す。
一人、ベッドの上で百面相を繰り広げ、天使と悪魔が脳内で激しい論戦を交わしていた、まさにその時。
「――リナ様。そろそろ、諦めてご準備なさっては、いかがです?」
背後から、くすりと笑いを堪えるような、涼やかな声が降ってきた。
弾かれたように振り返ると、そこにはいつからいたのか、セラさんが佇んでいた。完璧な微笑みの端が、明らかに楽しげに歪んでいる。
「う、うわぁあっ!? い、いつからそこに!?」
「『ハードルが高すぎる!』と仰っていたあたりから、でしょうか?」
「ほぼ全部じゃないですか!」
私の悲痛な叫びに、セラさんは楽しそうに肩をすくめた。
「大丈夫ですわ。シュタイナー中将も、ちゃんと『軍師殿』として接してくださいますから。……さあ、しっかりとなさいませ」
「う……ぅぅうう……」
それは、何の解決にもなっていない気がした。
◇◆◇
結局、私はセラさんとヴォルフラムさんに引きずられるようにして、作戦室へと向かった。
銀の仮面と豪奢なマントが、今はひどく重い。
扉を開けた瞬間、私の纏う空気は一変した。
そこにいたのは、もうただの少女ではない。帝国の未来を担う、『天翼の軍師』だった。
「――中将閣下。明後日の会談に向け、最終的な作戦計画の確認を」
凛とした声が、部屋の空気を引き締める。
シュタイナー中将は、地図盤から顔を上げ、私の姿をじっと見つめた。その目に、昨夜の面白がるような光はない。ただ、指揮官としての厳しい光だけが宿っていた。
「うむ。始めよう」
そこからは、プロフェッショナルたちの領域だった。
警護部隊の配置、万が一の際の退路確保、そして、会談が決裂した場合の次の一手。あらゆる可能性を想定し、緻密な計画が練り上げられていく。
ユリウス皇子たちも、その息詰まるようなやり取りを、壁際で固唾をのんで見守っていた。
◇◆◇
全ての確認が終わり、シュタイナー中将が「では、各自、準備を怠るな」と会議を締めくくった、その時だった。
「――天翼の軍師殿。少し、話があるのだが」
中将の声が、立ち上がりかけた私を呼び止める。彼はユリウス皇子たちに「席を外してくれ」と目配せすると、私を執務机の向かいの椅子へと促した。
重い扉が閉まり、部屋には二人きり。ランプの油が爆ぜる音だけが響く。
シュタイナー中将は、その岩のような顔に深い皺を刻み、どこかぎこちない口調で切り出した。
「……昨夜は、言いそびれたが」
その一言に、私の肩がびくりと跳ねた。昨夜の醜態の話だ。う、うわぁ。思わず仮面の下で、ぎゅっと目を閉じる。
彼は一度言葉を切り、視線を彷徨わせる。
「……その、なんだ。……ずいぶんと、思い悩んでおるようだったからな。……もし、何か辛いことでもあるのなら、この俺で良ければ聞くぞ。……一人で、抱え込むな」
その、あまりに不器用で、しかし心からの気遣いの言葉。
私の羞恥心は、再び臨界点を突破した。顔が燃えるように熱くなるのが、仮面の下で分かる。
だが、それ以上に。
この鋼鉄の男の、剥き出しの優しさが、胸の奥にじんわりと染みた。
私は仮面の下で顔を真っ赤にしながらも、ゆっくりと顔を上げた。そして、潤んだ瞳で彼を上目遣いに見つめた。
「……本当、ですか?」
声は、少しだけ震えていた。
「……じゃあ、あの……これからも一緒に、この国の平和のために戦ってくれますか? きっと、これからもたくさん無茶を言うと思います。……それでも、味方でいてくれますか?」
その言葉が落ちた瞬間、シュタイナーの動きが完全に止まった。
ゴツリと音を立て、テーブルの上に置かれていた彼の拳が、わなわなと震え始める。歴戦の猛将の、岩のような貌が、信じられないものを見たかのように歪み、その唇が何かを言おうとして、空しく開閉を繰り返した。ランプの光が、彼の潤んだ瞳の奥で揺らめいている。
「……当たり前、だろうが……!」
絞り出すような声は、ひどく嗄れていた。
彼は椅子を蹴るように立ち上がると、私の前に進み出た。そして、その熊のように大きな手が、私の頭の上に、まるで壊れやすい宝物に触れるかのように、そっと置かれた。
「……お前がこの国を思う限り、このシュタイナー、いつまでもお前の盾となろう。……だから安心しろ」
わしり、と。
少しだけ乱暴に頭を撫でられる。その不器用な温かさに、私の顔に再びカッと熱が集まるのが分かった。羞恥心と、安堵と、そしてどうしようもない気恥ずかしさが入り混じり、私は何も言えなくなってしまった。
私は、いたたまれないほどの羞恥心に耐えながらも、心の中で静かにガッツポーズを決めた。
(……最強の後ろ盾確保...だよね?うん。すべては私の計算通りっ!異論は認めないっ)
こうして一人の少女に、頼れる最強おじいちゃんが誕生した。




