第248話:『牢獄の対話、皇子の決意』
作戦室の熱気は軍議が終わった後もなお冷めることなく渦を巻いていた。
シュタイナー中将が地図の上に置かれた駒を指で弾きながら、腹の底から響く声で次々と指示を飛ばしていく。捕虜の解放手順、食料と薬の手配、そして国境付近の警戒態勢の強化。その言葉の一つ一つがリナが示した未来図を現実のものとするための、力強い槌音となって響いた。
「――お待ちください、中将閣下」
その喧騒を銀の仮面の下から放たれた静かな声がぴたりと止めた。
「解放の前に一度、私が彼らと話す機会をいただけますでしょうか」
リナの申し出にシュタイナーは訝しげに眉を寄せる。
「……ほう。何を話すというのだ」
「未来の話です」
きっぱりとした声に中将はしばらく黙って彼女を見つめていたが、やがて「……好きにするがいい」とだけ応えた。
私がセラたちを伴い作戦室を出ようとした、まさにその時。
「……我々も同行させていただきたい」
声の主はユリウス皇子だった。彼は椅子を蹴るように立ち上がり、その瞳に強い意志の光を宿してこちらを見ている。
「社会勉強のためという名目で結構です。……我々も知らねばなりません。帝国の敵とはどのような者たちなのかを」
その言葉にレオンとゼイドも弾かれたように立ち上がった。シュタイナー中将は面白そうに口の端を吊り上げると、「若い獅子たちが見たいというのであれば、止めはせん」と鷹揚に頷いた。
◇◆◇
砦の地下牢はひやりとした石の冷気と、癒えぬ傷から漂う血の匂い、そして絶望で満ちていた。
鉄格子の向こう、薄暗い藁の上に捕らえられた北方諸族の男たちが獣のように身を寄せ合っている。その目は光を失い虚ろに宙を彷徨うか、あるいは我々を射殺さんばかりの憎悪に燃えていた。
ユリウスたちはその剥き出しの敵意に息を呑む。
だが、その牢の前に立ったのは『天翼の軍師』ではなかった。
いつの間にか銀の仮面も豪奢なドレスも脱ぎ捨て、薬草の匂いが染みついた簡素なワンピースを纏ったただの小さな少女。リナの姿だった。
彼女は薬箱を抱え、まるで近所の子供に話しかけるように鉄格子の向こうへ穏やかな声を投げかける。
その言葉にユリウスたちは耳を疑った。
それは帝国のどの地方の言葉とも違う、風が荒野を渡るような荒々しくもどこか音楽的な響きを持つ未知の言語。
だが、その言葉が紡がれた瞬間、牢の中の空気が変わった。虚ろだった男たちの瞳に信じられないものを見るような驚愕の色が浮かび、憎悪に燃えていた目が戸惑いに揺らぐ。
「……北方諸族の言語だと……?」
レオンが戦慄に声を震わせた。この少女が、なぜ。
ゼイドもまた固唾をのんでその光景を見つめていた。リナはただ話しているだけではない。身振り手振りを交え、時には笑い、時には真剣な顔で彼らの心に直接語りかけているかのようだ。鉄格子という物理的な壁がまるで存在しないかのように。
やがて隊長格と思しき額に深い傷跡を持つ男がゆっくりと立ち上がった。
彼は牢の隅に置かれていた水差しを手に取ると、鉄格子の隙間からリナの足元にそっと置いた。それは彼らの文化における最大の敬意と信頼の証。
リナはにっこりと微笑むと、その水差しを受け取り一口だけ口に含んだ。
そして傍らの衛兵に静かに告げる。
「鍵を。……大丈夫、この人たちは何もしませんから」
衛兵は一瞬ためらうが、彼女の揺るぎない瞳に抗えず重い鉄の鍵束を差し出した。ギィと錆びついた音が響き、牢の扉が開かれる。
リナはためらうことなく中へ入ると、負傷して呻いている男たちの元へ屈み込んだ。薬箱から清潔な布と軟膏を取り出し、慣れた手つきで傷の手当てを始める。その姿はまるで戦場の天使だった。
牢の男たちはただ呆然とその光景を見つめている。彼らの心に張っていた氷が音を立てて融けていくのが、ユリウスたちのいる場所からでも見て取れた。
手当てを終えたリナは再び立ち上がった隊長格の男と向き合う。そして男にだけ聞こえるよう、声を潜めて同じ言語で囁いた。
「三日後から三日間、陽が傾き、影が最も長くなる刻に、北の『忘れられた神々の遺跡』で待っています。あなたの部族の族長と話がしたいです」
男の目に、一瞬だけ侮りの色が浮かんだのを、リナは見逃さなかった。たかが子供の戯言だと、そう思ったのだろう。
リナは構わず、静かに、しかし鋼のような響きを込めて付け加えた。
「――そこには、『天翼の軍師』が参ります」
その称号が持つ重みに、男の顔から血の気が引いた。彼は息を呑み目の前の少女を見つめ直した。
「あなた方と我々の、未来のための話をすると伺っております」
男の目は、さらに大きく見開かれた。
◇◆◇
作戦室に戻るとそこは将校たちの喧騒は去り、ランプの灯りが静かに地図を照らしていた。そして空気は再び凍りついた。
私が『単独での会談』を提案したからだ。
「なりません!」
最初に反対の声を上げたのはゲッコーさんだった。彼の顔からは感情が削ぎ落とされていたが、その声には珍しく焦りの色が滲んでいる。
「さすがに危険が過ぎる。……罠を仕掛けられる可能性も」
「リナ様! 私も反対です!」
ヴォルフラムさんも血相を変えて私の前に立ちはだかった。「お一人で行かせるなど、断じて!」
「危険すぎる! 私も反対だ!」
ユリウス皇子までもが声を張り上げた。彼の顔は心配と、そして彼女を守らねばという強い責任感で赤く染まっている。
その反対の嵐を私は静かな一言で制した。
「――これ以上、帝国の兵士の血を一滴たりとも流させないために」
その声はか細い。だが、その場にいる誰の声よりも重く部屋の空気を圧した。
「血を流さずして北の平穏を勝ち取ることができるかもしれない。……その可能性があります。私は賭けたいのです。それは決して分の悪い賭けではありません」
そのあまりの覚悟の前に、誰もが言葉を失った。
やがてシュタイナー中将が重々しく口を開いた。
「……よかろう。だが、条件がある」
彼は地図を広げ、遺跡から少し離れた丘を指し示した。
「……砦の精鋭を遠巻きに配置させる。万が一の時は即座に介入する。……それからゲッコーとヴォルフラムも同行させろ。……それで良いな?」
「……御意に」
私が頷くとユリウス皇子が弾かれたように顔を上げた。
「――私も護衛として同行させてはいただけないだろうか!」
その叫びに私は静かに首を横に振った。
「……ユリウス皇子。あなたの戦場はそこではありません」
そして彼の目をまっすぐに見つめる。
「ですが、シュタイナー中将がおられる丘の上からでしたらご覧になっても構いません。あなたには砦で、あるいはその丘で、どう動くのかをその目で見ていてほしいのです。……未来の王として知っておかねばならないことがここにはあります。民が何を思い、兵士が何を背負って戦っているのかを」
その言葉にユリウスはぐっと唇を噛み締めた。
それはただの拒絶ではなかった。彼に未来の皇帝としてのより大きな役割と期待を託す、軍師としての言葉だった。
「……分かった」
彼は自らの未熟さを噛み締めながらも力強く頷き返した。
そのやり取りをレオンとゼイドは複雑な表情で見つめていた。ゼイドはただ純粋な無力感に打ちひしがれていた。皇子の護衛として、この少女を守る騎士として自分にできることは何もない。ただ彼女が示す道を見守ることしかできない。その事実が彼の騎士としての矜持を鋭く深く傷つけていた。レオンはユリウスがこの少女から帝王学を学んでいるという信じがたい、しかし厳然たる事実を静かに受け止めていた。
窓の外では月が静かに夜空を昇り始めていた。




