第247話:『軍師の慈悲、皇子の学び』
やがて、重い扉が軋み、部屋の空気が一変した。
現れたのは、銀糸のウィッグと蝶の仮面をつけた『天翼の軍師』。その両脇を、セラとヴォルフラムが影のように固めている。
昨日まで同じ食卓を囲んでいた、あの小さな書記官の姿はどこにもない。
そこに立つのは、夜の闇より深い濃紺のドレスを纏い、人間味というものを削ぎ落とした、圧倒的な覇気を放つ存在だった。
レオンは、無意識に眼鏡の位置を直そうとした指先が、空を切るのを感じた。
カタリ、とゼイドの膝が微かに震え、テーブルの脚にぶつかる乾いた音が響く。彼は騎士としての本能から、腰の剣に手を伸ばしかけた。だが、その動きは途中で凍りついた。
目の前の存在が放つ気配は、敵意ではない。もっと根源的で、抗うことすら許さない、絶対的な「格」の違い。
肌が粟立ち、背筋を氷の指でなぞられたような悪寒が走った。
(……なんだ、これは……)
思考が、止まる。
朝まで部屋に籠っていたはずの、あの利発だが、か弱い少女。
その残像が、目の前の神話から抜け出してきたかのような荘厳な姿と、脳内で激しく衝突し、火花を散らしては消えていく。レオンの頭脳が、この矛盾した現象を理解しようと空転し、灼けつくような音を立てていた。
ユリウスだけが、全てを理解していた。彼は固唾をのんで、仮面の少女を見つめる。
(……リナ殿……)
昨日、感謝の言葉に打ちのめされ、罪悪感に震えていた少女はもういない。彼女は自らの悲しみも苦しみも、全てをこの冷たい仮面の下に封じ込めたのだ。軍師として、この戦場に立つために。その痛ましいほどの覚悟に、ユリウスの胸が締め付けられた。
リナは、レオンたちの戸惑いの視線など意にも介さず、シュタイナー中将の前に進み出た。
「中将閣下。本日の議題は、捕らえた北方諸族の捕虜の処遇について、と伺っております」
銀の仮面の下から響く声。
その瞬間、レオンとゼイドの肩が同時に跳ねた。それは昨日までの少女の声ではなかった。凛として澄み渡り、聞く者の魂を直接揺さぶるような、絶対的な威厳が宿っていた。
二人は弾かれたようにユリウスを見た。だが、皇子の顔には驚きの色はない。ただ、悲壮なまでの覚悟を宿した瞳で、仮面の少女をじっと見つめているだけ。
これが、現実。
レオンの喉がカラカラに乾き、ゼイドは自分が呼吸を忘れていたことに、ようやく気づいた。
「うむ」
シュタイナー中将が重々しく頷く。
「連中の口は固い。帝国の法に則り、鉱山送りとするのが妥当かと考えておるが……軍師殿の意見を聞きたい」
その言葉に、将校の一人が「当然ですな!」と声を張り上げた。
「奴らは我らの仲間を殺した! 生かしておくだけでも温情というもの!」
「そうだ! 労働力として死ぬまでこき使うべきだ!」
殺気立った声が、部屋のあちこちから上がる。
その熱狂に、リナは冷水を浴びせた。
「――反対です」
たった一言。その静かな響きが、全ての怒号を飲み込んだ。
「彼らは、即時、無条件で解放すべきです」
「なっ……!?」
「ご正気か、軍師殿!」「敵に塩を送るおつもりか!」
反発の嵐が吹き荒れる中、リナは動じない。彼女は地図の前に立つと、北方諸族が住まう広大な原野を、指先でゆっくりとなぞった。
「皆様は、戦の目的を履き違えておられる。我らの目的は、目の前の敵を殺すことではありません。この北の地を、未来永劫、帝国の脅威とならぬよう平定することです」
彼女は振り返り、将校たちの目を一人一人、射抜くように見つめた。
「彼らを鉱山へ送れば、何が起きますか。彼らの仲間は我らを悪鬼とみなし、憎しみの炎を燃え上がらせるでしょう。それは、未来永劫消えることのない禍根となります。我々は、死んだ兵士の数倍、数十倍の敵を、自らの手で作り出すことになる」
その冷徹な論理に、将校たちがぐっと言葉に詰まる。
「ですが、解放すればどうでしょう。それも、手厚い治療を施し、食料と、『二度と我らに刃を向けるな』という寛大な警告と共に」
リナの声が、わずかに熱を帯びた。
「彼らが持ち帰るのは、我らへの恐怖だけではない。『帝国は、話の通じる相手やもしれぬ』という、僅かな、しかし確かな『期待』です。その小さな期待の種が、彼らの部族の中に芽吹いた時、彼らは一枚岩ではいられなくなる。主戦派と和平派に分かれ、内から割れるのです」
「私が先の王国との戦で、捕虜をどう扱ったか。皆様もご存知のはずです」
その言葉に、将校たちはハッとしたように顔を見合わせた。
そうだ。この軍師は、同じ手で王国を内側から崩壊させたのだ。
「慈悲は、時に最も効率的な武器となります。血を流さずして敵の戦意を削ぎ、未来の禍根を断つ。……これこそが、真の勝利ではございませんか」
武力や権威ではない。ただ「理」と「実利」だけで、歴戦の猛者たちを沈黙させる。
その光景に、ユリウスは戦慄に近い感動を覚えていた。これが、彼女の戦い方。これが、自分が学ばねばならない、新しい王の形なのだと。
長い沈黙の後、シュタイナー中将が、重々しく口を開いた。
「……よかろう。軍師殿の案を採用する。……異論は、あるまいな」
その問いに、もはや誰一人として首を横に振る者はいなかった。




