第245話:『旅路の追憶、あるいは星屑の轍』
夜風が砦の石壁を撫で、遠い戦場の記憶を運んでくる。
自室の窓枠に肘をつき、私は眼下に広がる兵士たちの焚火の灯りを、ただぼんやりと眺めていた。一つ一つの灯りが、一つの命のようだ。あの日、私の指の間から零れ落ちていった、あの若い命のように。
心の湖面は静まり返っていた。悲しみも、悔しさも、今はもう波立たない。ただ、氷の底に沈めた誓いが、静かに、しかし絶対的な重みをもってそこにあるだけ。
ふと、背後の扉が控えめにノックされた。
「……リナ様。少し、よろしいでしょうか」
セラの声。私は頷きもせず、ただ「どうぞ」とだけ囁いた。
彼女は音もなく部屋に入り、私の隣に立った。その手には、湯気の立つカップが二つ。一つをそっと私に手渡してくれる。ハーブの優しい香りが、凍てついた心をわずかに溶かした。
「……眠れませんか」
「……ええ。少しだけ」
言葉少なな会話。だが、それで十分だった。彼女はただ、黙って隣にいてくれる。それだけで、私はこの孤独な夜を乗り越えられる気がした。
「……思い出していたんです」
カップの温もりに指を遊ばせながら、私はぽつりと呟いた。
「この旅路であった、色々なことを」
脳裏に蘇るのは、アクア・ポリスの朝焼け。巨大な鋼の船を見送り、若き王と交わした固い約束。マキナさんが目を輝かせて語った、空飛ぶ夢の心臓。爆発音と、それでも消えない不屈の笑み。あの熱気が、今も肌に残っているようだった。
「ふふっ」
思わず、笑みが漏れた。
「帝都では、大変でしたね。皇妃陛下とセラさんに捕まって」
「あら。リナ様、とてもお似合いでしたわよ」
からかうようなセラの声に、頬が熱くなる。あの絢爛たる衣装地獄。ユリウス皇子に見られた、ソファで気の抜けた無様な姿。思い出すだけで、身悶えするほどの羞恥心。だが、それすらも今となっては、どこか遠い日の微笑ましい記憶だった。
カップを傾け、温かい液体を喉に流し込む。
「……経済特区の、あの何もない荒野も」
「ええ。ゲッコーの淹れたお茶、絶品でしたわね」
「本当に。あの人、一体どこにあんなものを隠し持っていたんでしょう」
二人で顔を見合わせ、くすくすと笑い合う。何もない大地に広げられた、奇妙で優雅なティータイム。未来の都市計画図を広げ、夢中で語ったあの時間。あの時の高揚感を思い出すと、今も胸が熱くなる。
そして、孤児院。
「リナ姉ちゃん!」と駆け寄ってくる、小さな弾丸たち。もみくちゃにされながら感じた、温かい重み。院長先生の涙。子供たちの屈託のない笑顔。
あの場所だけが、私が『軍師』でも『書記官』でもない、ただのリナでいられる唯一の聖域。
「ゼイド様も、すっかり子供たちの人気者でしたね」
「ええ。トム君から託された木の枝、今も大切にされているとか」
「レオン様は……少し、大変そうでしたけれど」
「あの方は、少し頭が固すぎるのですわ」
次から次へと思い出される、旅の断片。
それはまるで、夜空に散らばる星屑のようだった。一つ一つはささやかな光でも、繋ぎ合わせれば、確かな轍となって、私が今ここにいる理由を教えてくれる。
「……セラさん」
「はい」
「ありがとう。……隣に、いてくれて」
「……いいえ」
セラはそれ以上何も言わず、ただ、私の手にそっと自分の手を重ねた。
その温かさが、氷の底に沈めた誓いを、静かに、強く支えてくれる。
窓の外で、焚火の灯りが一つ、また一つと消えていく。
長い夜が、静かに明けていこうとしていた。




