茶話会:『光の中の影』
アランが死んだ夜から、三日が過ぎた。
王都の喧騒から隔絶された、古びた教会の地下聖堂。ひやりとした石の空気が、蝋燭の揺れる灯りを静かに包んでいる。アラン――いや、今はまだ名もなき彼は、ここにいた。
彼が身を寄せるこの場所は、『影の部隊』が王都に確保していた数ある隠れ家の一つ。クラウスは彼に最低限の食料と水、そして数冊の書物だけを残し、「軍議が終わるまで、決してここを動くな」とだけ言い残して去っていった。
それは彼の身柄を保護するための蟄居であり、同時に、彼が自らの過去と決別し、未来を選ぶための、孤独な時間だった。
最初の夜は、後悔に苛まれた。
家族の顔が浮かび、温かい食卓の記憶が胸を締め付けた。もう二度と会えない。その事実が、鉛のように心を重くする。本当にこれで良かったのか、と何度も自問した。
二日目の夜は、怒りに震えた。
自分を、そしてこの国をここまで追い詰めた腐敗した貴族たちへの、燃えるような憎悪。そして、彼らを打倒する力を持ちながら、何もできなかった自分への無力感。石の壁を、血が滲むまで何度も殴りつけた。
そして、三日目の夜。
彼の心は、嵐が過ぎ去った後の凪のように、静まり返っていた。
蝋燭の灯りの下で、彼はクラウスが置いていった書物を読んでいた。それは帝国の歴史書や、軍師リナが示したとされる戦術論の写しだった。そこに描かれた合理的な思考と、民を第一に考える思想は、彼がこれまで貴族社会で学んでいたものとは全く異なっていた。
(……この方ならば、本当に国を変えられるのかもしれない)
(そして俺は、そのための捨て石となる……。いや、礎となるのだ)
壁の向こうから、遠いファンファーレの響きと、地鳴りのような歓声が微かに届いてくる。新王の戴冠式が始まったのだ。
彼は静かに本を閉じ、立ち上がった。そして、地下聖堂の隅に置かれた祭壇の前で、静かに膝をつく。
彼は祈った。
新しい王の治世が、光に満ちたものであるように。
愛する家族が、平和な日々を送れるように。
そして何よりも――。
「――どうか、私に力を」
絞り出した声が、冷たい空間に響く。
「名もなき影として、この国を、民を、そしてあの軍師殿をお守りできるだけの、力を」
その時、地下聖堂の重い扉が軋み、一つの影が姿を現した。
ライナー・ミルザだった。
彼は、新たな決意の光を宿した若者の前に立つと、静かに一枚の黒い仮面を差し出した。
「……覚悟は、できたようだな」
「はっ」
「……ならば、その覚悟が本物か、確かめる時だ」
ライナーは仮面を一旦懐にしまうと、アランに告げた。
「軍師殿から、新たな指示が届いている」
◇◆◇
翌日。
王宮の、人目につかない一室で、密やかな会談が持たれていた。
新王アルフォンスが、緊張と決意の入り混じった顔で、背筋を伸ばして立っている。その傍らには、衛士長としてライナーが控えていた。
彼らの前に座るのは、昨日までの貴公子の面影を消し、影の部隊が用意した簡素な黒衣を纏ったアラン。
「……そなたが、アランか」
アルフォンスの声は静かだが、王としての重みが宿っていた。
「ライナーから事情は聞いた。……礼を言う。そなたの勇気が、この国を救った」
その時、テーブルに置かれた小さな黒い箱が、ぶぶっ、と短く震えた。ライナーがボタンを押すと、変声機を通した、しかし紛れもない軍師リナの声が響き渡る。
『……陛下。そして、アラン殿。短い時間ですが、面会の場を設けました』
カーテンを固く閉ざした馬車が、王都の裏通りを抜け、男爵家の屋敷の小さな通用門の前で静かに止まった。
アランの心臓が、肋骨を叩くように大きく鳴る。
門が開き、父と、母と、そして幼い妹が姿を現した。その顔には、心配と、安堵が刻まれている。
「アラン……!」
涙ながらに駆け寄り、抱きしめ合う家族。
それは、軍師の温情によって許された、あまりに短く、あまりに尊い再会の時間だった。
やがて、涙を拭ったアランは、家族の前で、改めて深く膝をついた。
「父上、母上……。私は、もう、あなた方の知るアランではありません。私は、新しい道を選びました」
彼の声に、震えはなかった。
「私は影に生き、陛下を、そしてこの新しい王国をお支えいたします。……これは、他の誰でもない、私自身の意志です。私の選んだ、道なのです」
家族は、悲しみに顔を歪めながらも、その揺るぎない覚悟を宿した瞳を見て、全てを理解した。
父親が、震える手で彼の肩に手を置く。
「……お前が、自らの意志で選んだ道であるならば。……この国の、そして陛下のためであるならば……。父として、それを誇りに思う。……行ってこい、アラン」
家族からの、力強い後押し。
彼はもはや、軍師の筋書きの上で動く駒ではなかった。
自らの意志で、自らの道を歩み始めた、一人の男だった。
◇◆◇
アランが名もなき影として旅立った後。
賢者の庵で療養を続けていた私の元へ、彼が残した「誓約書」が届けられた。そこには、軍師への絶対の忠誠と、影として生きる覚悟が、力強い筆跡で記されている。
私はその羊皮紙を手に取り、ベッドの上で深く、長い溜息をついた。
(……本当に、これで良かったのだろうか……)
熱はまだ完全に引ききっていない。朦朧とする思考の中、罪悪感が冷たい霧のように胸に立ち込める。一人の若者の未来を、私は自分の都合でねじ曲げてしまった。彼を暗殺や謀略といった、血塗られた道へ進ませてしまうのか。
その時、枕元に置いてあったクラウスからの報告書の束に、ふと目が留まった。アランの人物調査に関する、詳細な資料だ。私はそれを、改めてゆっくりと読み返し始めた。
『……幼少より書斎にこもり、歴史書や法学書を読み耽る』
『……領地の農民とも分け隔てなく接し、収穫祭では共に汗を流すことも』
『……妹君のため、夜なべして木馬を彫る姿を、使用人が度々目撃……』
そこに描かれていたのは、諜報員や暗殺者とはあまりにもかけ離れた、一人の誠実で、心優しい青年の姿だった。彼の正義感と貴族としての教養は、確かに国を憂い、行動を起こす原動力となった。だが、その本質は「破壊」ではなく、「構築」に向いているのではないか?
(……もったいない)
思わず、声が漏れた。
そうだ。彼のような人材を影の1人として使うのは、あまりにもったいない。
政変後の王国で、彼の立場は極めて微妙だ。「帝国に寝返った裏切り者」の汚名は、そう簡単には消えないだろう。貴族社会への復帰は、いばらの道だ。
ならば――。
私の頭の中で、全く新しい盤面が立ち上がった。
帝国でも、王国でもない、第三の場所。
古いしがらみも、過去の汚名も関係ない、全く新しい社会。
『経済特区』。
(……そうだ。彼には、そっちの方が向いている)
体を動かすことよりも、その倫理観と熱意、そして民を思う心を活かせる場所。古い社会を壊すための駒ではなく、新しい社会を創るための、中心人物として。
熱に浮かされた頭が、一つの最適解を導き出した。それは、私にとっても、彼にとっても、そして未来の大陸にとっても、最善の一手となり得る。
「……セラさん」
私は、枕元の『囁きの小箱』を手に取り、傍らに控えるセラに告げた。
「ライナー隊長に、伝言を。……アラン殿の訓練内容を、変更します、と。……それと、グラン宰相とマルコ殿にも、根回しをお願いします。そちらに、新しい『補佐官』が一人増えますから、と」
◇◆◇
数ヶ月後。
帝国と王国の国境地帯に生まれつつある新しい都市、『自由都市』。
そこは、まだ土埃と木材の匂いが満ち、槌音と人々の怒声が絶え間なく響く、巨大な建設現場だった。
その熱気の中心で、一人の若者が図面の束を抱え、帝国人、王国人、ヴェネーリア人の職人たちが入り乱れる中を駆け回っていた。
アラン。
彼は今、新生王国のグラン宰相から正式に派遣された「王国側連絡官補佐」という肩書で、この場所にいた。
彼はもう、ただの諜報員候補ではない。リナが未来に見据える『経済特区』、その運営を担うための、次世代のリーダー候補として、ゼロから都市が創られていく様を、その肌で学んでいたのだ。
日中はマルコ・ポラーニ総督の秘書として、ヴェネーリア流の商魂と交渉術を目の当たりにし、夜は帝国の財務官カイ・シュルツェの元で、国を動かす経済と法の理論を叩き込まれる。そして、視察に訪れるマキナからは、常識外れの未来技術と、それを形にするための工学の基礎を学んだ。
理論だけではない。法が整備され、商業が生まれ、インフラが整っていく様は、彼にとって何よりの学びの場となった。
リナが彼に「影」として生きる覚悟をさせたことで、彼は全てのしがらみから解き放たれた。そして、それを踏まえたうえで、彼には自らの手で光の世界を創り出すという、より大きな役割を与える。
それは、病床で苦しみながらも見い出した、最も効率的な人材活用であり、かつ彼への最大限の配慮だった。
彼は、時折建設中の都市の一番高い場所から、故郷のある方角を眺める。
だが、その目に悲壮感はない。
いつか、自分が創り上げたこの新しい街に、胸を張って家族を招待する日を夢見て。
少しだけ更新滞るかもです。
本流の続き、並びに次章、その先が、ほぼ固まって来ましたので、そちらの準備に取り掛かります。
といいつつ?何かアップしそうな気はします(笑)




