茶話会:『蜘蛛の巣の震え』90.91
賢者の庵に差し込む月光は、白く、刃のように冷たい。
その静寂の中で、私の世界は一つの報告によって激しく揺さぶられていた。
枕元に置かれた『囁きの小箱』。そこから流れ込むクラウスの声は、いつもの冷静さを失い、隠しきれない焦燥に震えている。
『――リナ様。状況は最悪です』
熱に浮かされた頭の芯が、キーンと痛む。シーツを握りしめる指先に力が入らない。喉の奥が燃えるように乾き、絶え間なく続く咳が肺を苛んでいた。
それでも私は、意識の糸を必死に手繰り寄せ、通信機の向こうの声に耳を澄ませる。
『蜘蛛の巣』にかけた獲物が、予想外の動きを見せた。
バルガス侯爵一派が、内部に潜む裏切り者の存在に感づいたのだ。きっかけは些細なこと。だが、疑心暗鬼に駆られた獣たちの嗅覚は、時に恐ろしいほど鋭敏になる。
数日後。彼らは計画の中核を担う者たちだけを集め、極秘の会合を開く。そしてその場で、参加者全員に対する苛烈な尋問が行われる、と。
その罠の中心にいるのが、我々の協力者――若干二十歳、理想に燃える男爵家の次男、アランだった。
『……このままでは、アラン殿が捕えられます』
クラウスの声が、熱で朦朧とする私の鼓膜を打つ。
『救出は可能です。ですが、我々『影の部隊』の存在が露見し、作戦そのものが頓挫する危険性が……』
言葉の続きは、聞くまでもなかった。
判断を、委ねられている。
彼の命か、作戦の成功か。
あまりにもありふれた、そしてあまりにも残酷な天秤。
私の脳裏に、アランの身上書が炎のように浮かび上がった。
『正義感、人一倍強し。腐敗した貴族社会を憂い、民のための国を望む』
『妹の誕生を何よりも喜び、暇を見つけては手作りの木馬を彫っている』
そんな記述が、無機質なインクの染みとなって胸に突き刺さる。
顔も知らない。声も聞いたことがない。だが、彼の人生の温もりが、羊皮紙の向こうから確かに伝わってくる。
(……助けたい)
だが、軍師としての冷徹な部分が、氷の刃のようにその感傷を切り裂く。
彼一人を救うために、これまで積み上げてきた全てを水泡に帰すのか? この作戦が失敗すれば、王国は腐敗のままに沈み、さらに多くの血が流れることになる。それは、アラン自身が最も望まない未来のはずだ。
部屋には、蝋燭の炎が爆ぜる音と、私の荒い呼吸音だけが響く。
隣で見守るセラが、心配そうに私の額の濡れ布を替えようと手を伸ばす。その冷たい指先が肌に触れた瞬間、びくりと体が震えた。
「……大丈夫です」
私はその手を、か細い声で制した。大丈夫なはずがない。思考が熱でまとまらない。頭の中で、無数の声が反響している。
『助けて』
『見捨てるのか』
『大義のためだ』
『人殺し』
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
誰にともなく、心の中で繰り返す。
私はシーツをさらに強く握りしめた。爪が食い込み、指先が白くなる。
どうすればいい。
どうすれば、彼も、作戦も、未来も、全てを救える?
思考が、灼熱の鉄のように軋みを上げる。
やがて、私は一つの結論にたどり着いた。
それは、彼を救うのでも、見捨てるのでもない。
彼という存在を、この世界から「消し去る」という、第三の道。
私は震える手で『囁きの小箱』を握りしめた。冷たい金属の感触だけが、この熱に浮かされた世界で唯一の現実だった。
これから私が口にする言葉は、一人の人間の運命を根こそぎ奪い去る呪いとなる。その罪の重さに、八歳の少女の身体が耐えきれずに震えた。
だが、私は『天翼の軍師』なのだ。
私は、決断を下さなければならない。
息を吸う。
咳き込みそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に堪えた。
そして、吐き出す息と共に、言葉を紡いだ。
描くか、悩んだお話です。
茶話とするには重いお話ですが、リナの苦しみを分かち合いたいと、思い直しました。
うん。重たいですね。そうだ。この話が一段落したら、スカッとする話を探しに行こう!
......何処かにあったような(笑)




