茶話会:『名もなき蛇の誕生 - 梟の翼の下で』
オウルの隠れ家は、街の喧騒から隔絶された、古びた時計塔の屋根裏にあった。
錆びた歯車が軋む音と、窓から吹き込む風の音だけが響くその場所で、少女は初めて「リゼット」という名前と、温かい寝床を与えられた。
そこからの四年間は、彼女にとって生まれて初めての、満たされた時間だった。
腹を空かすことも、寒さに凍えることもない。オウルの下で、リゼットは諜報員としてのあらゆる技術を、乾いた砂が水を吸うように、驚異的な速さで吸収していった。
ある日は、市場の雑踏の中。
「いいか、リゼット。あの果物売りの女を見てみろ。客と話す時、左の眉が僅かに上がる。嘘をついている時の癖だ」
オウルの囁きを背に、リゼットは人波に紛れ、何時間もターゲットの微細な表情筋の動きを観察し続けた。
またある夜は、錠の掛かった頑丈な木箱の前で。
「音を聞け。指先に伝わる振動を感じろ。錠前は力でこじ開けるんじゃない。心を通わせ、囁きかけるように解くんだ」
冷たい金属と格闘し、指先に血が滲むことも一度や二度ではなかった。
そして、月明かりだけが差し込む屋根裏では、音の無い戦いが繰り広げられた。
「違う! 殺すための動きじゃない! 相手を無力化し、確実に生き残るための動きだ!」
オウルの鋭い叱責が飛ぶ。リゼットは息を切らし、汗を光らせながら、短剣を手に何度も師に打ち込んでいく。だが、その切っ先は常に空を切り、気づけば体の自由を奪われ、冷たい床に押さえつけられている。力でねじ伏せるのではない。相手の力を利用し、急所を的確に突く。影に生きる者のための、非情で合理的な暗闘術。彼女はその全てを、その小さな体に叩き込んでいった。
変装術、潜入術、そして人の心を操る術。
彼女はもはや灰色の石ころではなかった。どんな色にも染まれる、変幻自在のカメレオンへと、その姿を変えていた。
オウルは、リゼットを娘のように可愛がりながらも、日に日に研ぎ澄まされていくその才能の底知れなさに、時折、畏怖さえ覚えていた。
ある夜、チェス盤を挟んで向かい合いながら、彼はポツリと、言い聞かせるように言った。
「――いいか、リゼット。優秀すぎる牙は、時に主さえも傷つける。牙は、見せるべき時にだけ見せろ。それ以外は、徹底的に隠すんだ。それが、俺たちのような影の人間が、この世界で長く生きるための唯一のコツだ」
リゼットは何も答えず、ただ小さな手でクイーンの駒を滑らせ、いとも簡単にオウルのキングをチェックメイトに追い詰めてみせた。その瞳は、盤上の勝敗以外、何も映してはいなかった。
オウルは深いため息をつくと、彼女の頭を大きな手でわしわしと撫でた。「……ったく、可愛げのねえ奴だ」その声には、困惑と、そして隠しきれない愛情が滲んでいた。
だが、その蜜月は長くは続かなかった。
オウルの数々の功績を妬む本部の上官が、彼を「辺境地域の安定化」という名目の、事実上の左遷へと追いやったのだ。辞令が届いた日、時計塔の部屋は、いつもよりずっと静かだった。
そして、彼の「最も優秀な手駒」であったリゼットは、その才能を惜しまれ(という名目で)、十四歳にして本部へと引き抜かれることになった。見た目が良く、若い彼女は、手柄を欲しがる上官たちにとって、格好の「飾り物」に見えたのだ。
「リゼット君の才能は、本部でこそ活かされるべきだ。喜ばしいことじゃないか、オウル君」
上官はそう言って、オウルの肩を偽りの友情で叩いた。
旅立ちの日。時計塔の窓から、遠ざかっていく師の背中が見えた。荷物をまとめたその背中は、いつもよりずっと小さく見えた。
「……行ってきます、先生」
誰に聞かせるともない呟きを、風が攫っていく。その横顔に、感情はない。涙も、悲しみも、見せることはない。それが、彼から教わった「影」の生き方だったからだ。
だが、オウルだけは知っていた。自分がこの場所を去る時、リゼットが誰にも見られぬよう、窓辺に一輪の、名の知れぬ野の花を飾ってくれていたことを。
それが、彼女なりの不器用な、そして精一杯の別れの言葉だった。




