茶話会:『名もなき蛇の誕生 - 灰色の石ころ』00
その街は、死んでいた。
空は煤で灰色に淀み、瓦礫の山と化した家々の隙間を、乾いた風が呻くように吹き抜けていく。子供たちの泣き声はとうに枯れ果て、代わりに腹を空かせた野犬の遠吠えだけが、時折、死んだ街の静寂を破っていた。
その瓦礫の影の一つとして、十歳の少女は息を潜めていた。
名は、ない。
他の孤児たちの中に紛れ、彼女はわざと煤で顔を汚し、ぼろを纏う。ひときわ小さく、ひときわみすぼらしく、誰の記憶にも残らない「灰色の石ころ」であることに徹していた。
美しいものは、奪われる。強いものは、砕かれる。目立つものは、まず喰われる。
それが、この地獄で生き抜くために、彼女がその幼い魂に刻み込んだ、唯一の法則だった。
食料の配給に並ぶ、長い長い列。
他の子供たちが空腹に耐えかねてぐずり、あるいは虚ろな目でただ待つ中、彼女の瞳だけが冷たい光を宿していた。
その目は、獲物を狙う小動物のように、一点を凝視している。
配給係の兵士。その肩章の汚れ具合、靴紐の結び方、そして時折、無意識に腰のナイフを確かめる仕草。新兵だ。実戦の経験がなく、この惨状にまだ心が慣れていない。だからこそ、油断が生まれる。
彼女は待った。
日が傾き、兵士たちの疲労が頂点に達し、交代の時間が近づく、その一瞬を。
案の定、交代の兵士と短い言葉を交わした瞬間、彼の注意がほんのわずかに逸れた。
その刹那。
彼女の小さな体は、人垣の隙間を縫うように、音もなく滑り込んだ。狙いは、配給用のパンが積まれた木箱の、一番下。兵士の死角。
ごわつく麻袋に小さな手が触れ、黒パンを一つ掴み取る。誰にも気づかれず、再び列の最後尾に戻るまで、心臓の音一つ変わらなかった。
それを、通りの向かいの建物の二階、窓の影からじっと見つめる目があった。
アルビオン諜報部のベテラン工作員、コードネーム『オウル(梟)』。彼は物陰から、リゼットが屈強なごろつきの懐から、気づかれることなく財布を抜き取る瞬間さえも、目撃していた。
それは盗みというより、もはや芸術だった。相手の意識を言葉で巧みに逸らし、その体の僅かな動きに合わせて影のように寄り添う。抜き取られたことさえ気づかせない、完璧な手際。
(……面白い)
オウルの口元に、乾いた笑みが浮かんだ。
(あの目……。ただの飢えた子供の目じゃない。全てを観察し、分析し、生きるためだけの最適解を導き出す……狩人の目だ)
その日の夕暮れ。
少女が一人、路地裏で手に入れたパンを無心でかじっていると、不意に目の前に影が落ちた。
顔を上げると、旅商人のような身なりをした、人の良さそうな男が立っている。だが、その瞳の奥に宿る光は、昼間の兵士たちとは全く違う種類のものだった。
「お嬢ちゃん、その目、気に入った」
オウルは、しゃがみ込んで少女と目線を合わせると、言った。
「俺と来ないか。腹一杯、飯を食わせてやる。温かい寝床も、綺麗な服もくれてやる」
少女はパンをかじるのをやめ、男をじっと見つめ返した。
品定めするように、頭のてっぺんから爪先まで。その言葉の真偽を、瞳の奥にある本当の意図を、探るように。
やがて、彼女は小さな口を開いた。
「……代わりは、なに?」
その声は、年の割にひどく乾いていた。
その問いに、オウルは心底楽しそうに、喉の奥でくつくつと笑った。
「――お前の、その『目』だ」
少女は、男の手を見た。節くれだった、大きな手。それはパンを恵んでくれるだけの善人の手ではない。だが、自分を縛り付けようとする支配者の手でもない。
差し伸べられたその手は、彼女に新しい「道具」の使い方を教えてくれる師匠の手に、見えた。
彼女は、かじりかけの黒パンを懐にしまうと、無言で立ち上がった。
そして、差し出された男の大きな手を、ためらいなく、その小さな手で握り返した。
だ~れだ。
判りますよね????
うー。まぁ、リゼットちゃんって書いちゃった(笑)




