第25話:『聖女の誤算と帝国の激震』
歴史的大勝利の熱狂が冷めやらぬ中、東部戦線の帝国軍駐屯地では、奇妙な光景が日常となりつつあった。
『謎の軍師』の威光も、男爵叙任の栄誉もかなぐり捨て、ただの書記官の少女リナとして、私が野戦病院を駆け回る姿だ。
私は、まず自国の負傷兵を見舞い、彼らの話し相手になったり、食事の補助をしたりした。最初は戸惑っていた帝国兵たちも、私の献身的な姿に、次第に心を開いていった。
「リナちゃん、ありがとうな。あんたの顔を見ると、痛みが和らぐ気がするよ」
「故郷にいる、俺の妹にそっくりだ……」
彼らにとって、私はもはや「閣下のお気に入りの書記官」ではなく、戦場の喧騒の中に舞い降りた、小さな癒やしの存在となっていた。
そして、帝国兵の看護を終えると、私は足早に、捕虜となっている王国兵の治療へと向かう。
当初、この行動に冷ややかだった帝国軍の衛生兵たちだったが、グレイグ司令官の一言が、彼らの意識を完全に変えた。
「――聞け。これは、軍師殿の新たな“策”だ」
グレイグは、衛生兵長を呼びつけると、わざとらしく、しかし真剣な表情で言った。
「軍師殿は、こうお考えだ。『ここで敵兵を無為に死なせることは、敵に無用な恨みを残し、将来の禍根となる。生きて帰し、帝国軍の寛大さを見せつけることこそ、敵の戦意を内側から砕く、最上の計略である』、と。……分かったな。これは、戦闘の延長だ。一人でも多く治療し、帝国の恐ろしさと、そして、慈悲深さを、骨の髄まで叩き込んでやれ。軍師殿の命令だ、しっかり頼むぞ」
その「公式見解」は、瞬く間に全軍に広まった。
「さすが軍師様だ! 敵の心まで操ろうというのか!」
「俺たちには、考えも及ばない深謀遠慮だ……!」
兵士たちは、完全に納得し、私の行動を畏敬の念で見守るようになった。衛生兵たちも、今では積極的に、王国兵の治療にあたっている。
(……え、そんな大層な作戦じゃ、ないんですけど……)
私は、グレイグのあまりに見事な脚色に、内心で冷や汗をかいていた。だが、結果的に王国兵が助かるのなら、と、その誤解を訂正することはしなかった。
私の治療を受けた王国兵たちは、戸惑い、そして、次第にその心を変えていった。
彼らの多くは、今回の戦いで急遽かき集められた、平民出身の兵士たちだった。国のため、というよりは、家族を養うために、あるいは強制的に戦場へ送られてきた者たちが大半だ。
彼らは、帝国兵は残虐非道な悪魔だと教えられてきた。しかし、現実はどうだ。
自分たちを罠にかけたのは、自国の無能な上官たち。
そして、その自分たちを、敵国であるはずの、小さな少女が懸命に手当てしてくれている。
感謝と、混乱と、そして、自国への不信感が、彼らの心の中に静かに芽生えていった。
数週間後。
捕虜交換の協定が結ばれ、治療を終えた王国兵たちが、故郷へと帰っていくことになった。
彼らは、去り際に、私の前に列をなし、一人、また一人と、深々と頭を下げていった。
「……ありがとう、嬢ちゃん。あんたのことは、一生忘れねぇ」
「故郷に帰ったら、みんなに話す。帝国には、悪魔だけじゃなく、女神様もいた、ってな……」
彼らが帰郷したことで、王国側に、リナの全く意図しない、しかし絶大な効果がもたらされることになる。
彼らが語る「帝国の謎の軍師の恐るべき知略」「自軍の上官たちの無能さ」、そして何より「敵国の小さな少女による献身的な看護」。
この話は、瞬く間に王国全土へと広がり、民衆の間に、帝国への恐怖と同時に、王国上層部への強い不信と厭戦気分を蔓延させていく。
王国軍は、次の徴兵にさえ、苦労することになるだろう。
それは、どんな武力よりも強力な、内側からの崩壊の始まりだった。
◇◆◇
その効果が、徐々に明らかになるにつれ、今度は帝国内部に、新たな激震が走った。
「軍師殿は、戦に勝つだけでなく、敵の心さえも掌握された!」
「武力による勝利と、慈悲による懐柔。まさに、覇王の器!」
私の評価は、もはや人間のそれを超え、神格化の一途を辿っていた。
そして、いつしか、新たな噂が囁かれ始める。
「東部戦線には、二人の神がいる」
「一人は、勝利をもたらす、フードを被った『戦の神』」
「そしてもう一人は、敵味方の区別なく、傷ついた者を癒やす、小さな『慈悲の女神』……」
帝都では、吟遊詩人たちが、私のことをそう歌い始めた。
その噂は、皇宮にも届いていた。
薔薇の庭園でお茶をしていた皇妃セレスティーナは、その報告を聞くと、楽しそうに、そして誇らしげに微笑んだ。
「まあ、私のリナが、『聖女』ですって? ……ふふ、あちらの偽物の聖女様は、今頃どんな顔をしているのかしら。面白いことになってきたわね」
私の、たった一つの偽善。
それは、私のあずかり知らぬところで、私を『第二の聖女』へと祭り上げ、物語を、さらに複雑で、予測不可能な方向へと、大きく動かしていくのだった。
そして、帝都を思う。孤児院のみんなと、美味しいケーキ、そして、私を待っていてくれる、新しい家族(のような人たち)。
私の心は、決まった。