第244話:『氷の誓い』
薬草と消毒液の匂いが、澱んだ空気と共に鼻をつく。
水底から引き上げられるように、意識がゆっくりと浮上した。鉛のように重い瞼をこじ開けると、滲む視界に見慣れない木目の天井が映る。砦の一室、清潔だが硬いシーツに包まれたベッドの上だった。
傍らの椅子には、セラ副官が静かに腰掛けていた。
窓からの薄明かりに照らされた横顔は彫像のように動かなかったが、私に気づいて向けられた翠の瞳は、底なしの湖のように深く、痛ましいほどに揺れていた。
「……あの、兵士さんは……?」
喉の奥から絞り出した声は、砂を噛んだように掠れていた。
セラは何も言わない。ただ、哀しみを湛えた瞳で私を見つめ、静かに、ゆっくりと首を横に振った。
その僅かな動きが、残酷な答えのすべてだった。
息が止まる。心臓を氷の手に鷲掴みにされたように、全身の血が凍りついた。
私が、躊躇ったから。私が、怖がったから。
たった一つの命が、私の指の間から零れ落ちた。
その時、控えめだが躊躇いがちなノックが二度、扉を叩いた。
セラに促されて入ってきたのは、働き続けた証である深い皺が刻まれた手をした、初老の女性だった。その背後には、顔を伏せ、肩を震わせる若い娘が影のように寄り添っている。擦り切れた服、悲しみと疲労で色のない頬が、彼女たちの過酷な日々を物語っていた。
亡くなった兵士の母親なのだという。
彼女は私の前に進み出ると、ごつごつとした膝を折り、深く、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
床に擦りつけられんばかりのその姿が、千の刃となって私の胸を抉った。
「あなたが……あなたが最後まで、あの子の手を握っていてくれたと聞きました。……あの子は、きっと、一人ではなかったのですね。本当に、ありがとうございました……」
しゃくりあげながら、何度も頭を下げる母親。その後ろで、恋人だったのだろう、娘が堪えきれずに嗚咽を漏らした。
違う、と叫びたかった。やめてください、と懇願したかった。
けれど、喉は鉛のように固まって動かない。感謝される資格など、私にはない。私はただ、消えゆく命を前に、立ち尽くすことしかできなかったのだから。
わずかに開かれた扉の隙間から、ユリウスはその光景のすべてを見ていた。
感謝の言葉を受けながら、リナの小さな背中が、耐えきれないほどの罪悪感に震え、今にも崩れ落ちそうに見えた。手を伸ばすことも、声をかけることもできない。己の無力さが、歯噛みするほどもどかしかった。
◇◆◇
数日後。
夜明けの空は分厚い雲に覆われ、まるで鉛を溶かしたように鈍色に淀んでいた。肌を刺すような冷たい風が砦の旗を打ち、湿った音を立てている。
私は新しく土が盛られただけのささやかな墓標の前に、一人で立っていた。
頬はとうに乾いている。涙は枯れ果てた。
ただ、凍てついた湖面のような静寂が、瞳の奥に広がっていた。
脳裏に焼き付いて離れないのは、消えゆく命の灯火と、己の無力さ。そして、あの異質な力を振るうことへの、魂が凍るような恐怖。一度知ってしまった代償の重みは、心に深く打ち込まれた楔だ。
あの時、力を使えば救えたのか。
だが、その代償に私は、私でなくなっていたかもしれない。
どちらが正しかったのか。答えはなく、ただこの胸を苛む罪悪感だけが現実だった。
墓標の冷たい石に、そっと指先で触れる。
そして、静かに、しかし決して折れることのない声で、夜明けの冷気に言葉を溶かした。
「安らかに、お眠りください」
もう、迷わない。もう、ためらわない。
「……私は、誓います」
この忌まわしい力に頼らずとも済むように。
誰も、こんな無意味な死を選ばずに済むように。
「――この戦いそのものを、私が終わらせる」
それは復讐の誓いではない。
人ならざる力に頼るのではなく、人の知恵と覚悟だけで、この血塗られた連鎖を断ち切るのだという、あまりに孤独で、気高い覚悟の宣誓だった。
少し離れた柱の陰から、ユリウスはその姿を見つめていた。
昨日までの、戸惑い涙していた少女はもうどこにもいない。そこに立つのは、あまりにも大きな覚悟をその華奢な肩に背負った、孤高の軍師。その横顔から放たれる凄絶な気迫に、彼は息を呑む。
ただ、彼女が踏み出した道がどれほど過酷なものかを悟り、再び己の無力さを噛み締めることしかできなかった。
皆様の温かい応援のおかげで、今、このリナたちの物語を「本」という形にするためのお話が進んでおります。
それに伴い、これまでの物語をさらに磨き上げる、書籍向けのブラッシュアップ作業に、取り組ませていただいております。
どうか、少しだけ、待っていてください。
〜かぐや〜




