第239話:『騎士の誓いと、北への旅路』
孤児院での三日目の夕刻。
子供たちとの別れを惜しむように、空が茜色に染まっていた。
中庭では、ゼイドが木の棒を手に、目を輝かせるトムや他の男の子たちを相手に剣術の初歩を教えていた。土埃と汗にまみれたその顔は、いつになく生き生きとしている。
「いいか、基本は腰だ! 腕の力だけで振るんじゃない!」
その姿は、もはや堅苦しい騎士見習いではなく、頼れる近所の兄貴分だった。
その輪から少し離れた場所で、私は一人、井戸端に腰掛けていた。明日には、またこの温かい場所を離れなければならない。
ゼイドは子供たちに休憩を命じると、汗を拭いながら私の元へ歩み寄ってきた。彼の影が、夕陽に長く伸びる。
「リナ殿」
彼の真剣な声に、私は驚いて振り返った。
「単刀直入に聞く。……あなたは、何者なのだ?」
その問いは、レオンのような探る色ではなく、ただ純粋な疑問と、理解したいという真っ直ぐな意志に満ちていた。
「俺は騎士見習いだ。皇子殿下をお守りし、この旅を全うする責務がある。だが、あなたの周りでは、俺の知らないことばかりが起きているように感じる。護衛の方々の動きも、殿下のご様子も……そして、あなた自身のこともだ。これでは、いざという時に俺は殿下をお守りできないかもしれない」
そのあまりに実直で、騎士としての責任感からくる問いに、私は一瞬言葉を失う。レオンとは違う。この青年は、ただ純粋に「知りたい」のだ。仲間として、皇子の護衛として、状況を把握したいだけなのだと。
私は、彼の目をじっと見つめ返す。そして、嘘ではない、しかし真実の全てでもない答えを、静かに返した。
「……ゼイド殿。あなたのそのお気持ちは、とても嬉しいです。ですが、私にも、お話しできないことがあります。それは、皇帝陛下から直接いただいた、勅命に関わることだからです」
私はそこで一度言葉を切り、少しだけ声を和らげた。
「ですが、一つだけお約束します。この旅で、ユリウス皇子殿下や、あなた方の身に危険が及ぶようなことは、決してありません。私が、この命に代えても、お守りしますから」
その言葉に、ゼイドはハッとする。守られるべき小さな少女から、「守る」と断言された。しかも、その瞳には絶対的な覚悟が宿っている。
彼はしばらく何も言えずに私を見つめていたが、やがて、ふっと肩の力を抜いた。そして、少し照れくさそうに頭を掻く。
「……そうか。……勅命、とあらば仕方ないな。……分かった。今は、あなたの言葉を信じよう。……だが、俺も皇子の護衛として、あなたを、そして殿下を必ず守る。それだけは忘れないでほしい」
「はい。頼りにしています、ゼイド殿」
二人の間に、少しだけ、不思議な信頼関係が芽生えた瞬間だった。
◇◆◇
出発の朝。
門の前は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった小さな顔で溢れていた。
「もう行っちゃうの?」「もっと絵本読んで!」
子供たちは、旅支度を終えた私の服の裾を、離すまいと固く握りしめている。アンナは、言葉もなくただ私の腰にしがみつき、その小さな肩を震わせていた。
私は一人ひとりの頭を撫で、「必ずまた帰ってくるから。もっとたくさんのお土産を持ってね」と約束する。
ユリウス、レオン、ゼイドは、その光景を少し離れた馬車のそばから見守っていた。貴族である彼らにとって、これほど剥き出しの愛情と悲しみが交錯する別れは、初めて目にする光景だった。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるようだった。
やがて、アガサ院長が私を強く抱きしめ、「あなたの信じる道を行きなさい。ここは、いつでもあなたの帰る場所ですよ」と、涙ながらに送り出してくれた。
私が馬車に乗り込もうとした、まさにその時だった。
「――ゼイド兄ちゃん!」
人垣をかき分けて、トムが駆け寄ってきた。その小さな手には、昨日ゼイドが稽古で使っていたのと同じ、ただの木の枝が握りしめられている。
彼は息を切らしながらゼイドの前に立つと、ぎこちないながらも、教わったばかりの騎士の礼を取って見せた。
「……どうした、トム」
ゼイドが屈んで目線を合わせると、トムは真っ直ぐな瞳で彼を見上げた。
「俺、大きくなったら、ゼイド兄ちゃんみたいに強くなる。そして、リナ姉ちゃんを守る騎士になるんだ!」
その、あまりに純粋で、力強い誓い。
ゼイドは、言葉を失った。
トムは手にしていた木の枝を、まるで宝剣を捧げるように、ゼイドに差し出した。
「だからこれ持っていって。俺が守れるようになるまで、リナ姉ちゃんのことちゃんと守ってよ!」
その小さな手から木の枝を受け取った瞬間、ゼイドの心に、熱い何かが込み上げてきた。
それは、ただの木の枝ではなかった。
一人の少年の夢と、信頼、そして、かけがえのないものを託された重み。
彼は、ただ一言だけ答えた。
「……ああ。……約束、する」
◇◆◇
再び始まった馬車の旅。城塞都市の壮麗な城門をくぐり、一行の馬車は一路、北を目指す。
ユリウス皇子たちの馬車の中は、重い沈黙に包まれていた。
車輪が石畳を叩く音だけが響く中、レオンは窓の外を流れる景色に目を向けたまま、静かに口を開いた。
「……ユリウス。……僕たちは、考えを改めるべきみたいだね」
その声には、自らの浅慮を恥じる響きがあった。
「あの少女は……リナ殿は、僕たちが知っているどんな物差しでも測れるような人じゃない。……陛下が、あれほどまでに目をかけられる理由の一端が、少しだけ分かった気がするよ」
ユリウスは、レオンの言葉を黙って聞いていた。彼の視線は、前を行く馬車を追いかけてしまっていた。
彼女が守りたかった世界。それに触れてしまった今、彼の心は、これまで自分が生きてきた窮屈で予測可能な貴族の世界には存在しない価値観に、大きく揺り動かされていた。
そして、その後ろの席。
ゼイドは、窓の外を流れる景色を見てはいなかった。
彼の視線は、膝の上に置かれた一本の、ただの木の枝に注がれていた。
トムから託された、約束の証。そのざらりとした感触を、指先で確かめる。
(……そうだ。彼女は、か弱い。……俺が、守らなければならない存在だ)
騎士としての責務が、胸の内で熱を帯びる。あの小さな体では、野盗の一振りさえ受け止められまい。ユリウス皇子殿下はもちろん、彼女もまた、この剣で守り抜く。トムとの約束が、その決意を鋼のように硬くした。
だが――。
ぎゅっと、木の枝を握りしめる。
脳裏に蘇るのは、孤児院での彼女の姿。子供たちを束ねる温かい眼差し。古代語の書物を読み解く横顔。そして、自分に「お守りします」と言い切った、あの揺るぎない瞳。
(……なのに、なぜだ)
圧倒的な力の差があるはずなのに、彼女の前に立つと、自分がひどく未熟で、青臭い若造のように感じられてしまう。
剣の腕では、俺が勝る。体力も、そうだ。
だが、それ以外の全てで、俺は彼女に敵わない。
あの落ち着き。あの場の空気を支配する力。そして、あの底知れない何か。
直感が、そう告げていた。
(……力だけが、強さではないのか……?)
ゼイドは、はっと顔を上げた。
今まで考えたこともなかった問いが、雷のように頭を撃ち抜く。
ただ剣を振るうだけでは駄目だ。人を見抜き、場を読み、そして、守るべき者の心を理解する力。それこそが、真の騎士に必要なものなのではないか。
彼は、膝の上の木の枝を、そっと傍に置いた。
そして、窓の外へと視線を移す。
もう、前を行く馬車をただ眺めているのではない。その先に広がる険しい北の道のりと、これから始まるであろう本当の「試練」を、彼はその瞳に捉えていた。




