第24話:『勝利の代償と偽善の祈り』
勝利の歓声は、夜になっても鳴り止まなかった。
駐屯地は祝宴の真っ只中で、兵士たちは酒を酌み交わし、勝利の歌を歌い、この数年間の鬱憤を晴らすかのように騒いでいる。
だが、その熱狂の輪に、私は加わることができなかった。
輿から解放され、いつものリナの姿に戻った私は、自分の天幕で一人、膝を抱えていた。
脳裏に焼き付いて離れないのは、戦果報告書に記された、無機質な数字の羅列。討ち取った敵兵の数、捕虜の数。その一つ一つが、私の立てた作戦によって失われた、誰かの命の重みとなって、私の胸にのしかかってくる。
(私が、殺したんだ……)
間接的にではあるが、私が彼らの命を奪ったことに変わりはない。帝国を守るため。仲間を生かすため。そう頭では理解しようとしても、心が追いつかない。前世で、ただ平和な日常を生きてきた魂が、この凄惨な現実を拒絶していた。
私の頬を、また涙が伝う。
コン、コン。
「リナ、入るわよ」
静かな声と共に、天幕に入ってきたのはセラ副官だった。彼女の手には、温かいミルクが入ったカップが握られている。
「……眠れないのかと思って」
彼女は、私の隣に静かに腰を下ろした。私の涙に濡れた顔を見ても、何も聞かずに、ただそこにいてくれる。その優しさが、今は何よりもありがたかった。
「……セラさん」
私は、震える声で尋ねた。
「捕虜になった、王国軍の兵士たちは……どうなるんですか?」
「……そうね。尋問の後、多くは奴隷として売られるか、鉱山での強制労働に送られることになるでしょう。それが、戦争の慣わしだから」
その淡々とした事実に、私の心はさらに冷えていく。
傷ついた兵士たちは? 治療も受けられず、苦しみながら死んでいくのだろうか。
(……嫌だ)
そんなの、絶対に嫌だ。
私は、勢いよく立ち上がった。
「グレイグ閣下は、どこですか?」
「え? 閣下なら、将校たちと祝宴の席に……」
セラの言葉を最後まで聞かず、私は天幕を飛び出した。
祝宴の中心で、上機嫌に酒を飲んでいたグレイグの前に、私は走り寄った。周りの将校たちが、突然現れた私を見て、驚いた顔をしている。
「閣下! お願いがございます!」
「ん? おお、リナか。どうした、そんなに慌てて」
酒で顔を赤らめたグレイグが、私に気づいて笑顔を向ける。
私は、周りの目も気にせず、はっきりと、そして力強く言った。
「捕虜となっている、王国軍の負傷兵に、治療を施す許可をください!」
その言葉に、祝宴の喧騒が一瞬、シン、と静まり返った。
将校の一人が、呆れたように言う。
「何を言っているんだ、小娘。奴らは敵兵だぞ? 我々の仲間を殺した憎い敵だ。貴重な薬を、なぜ奴らのために使わねばならん」
「そうだ! 生かしておくだけでも、温情だろう!」
反発の声が、あちこちから上がる。
だが、私は怯まなかった。
「彼らは、もう兵士ではありません! 武器も持たない、ただの傷ついた人間です! 目の前で苦しんでいる人を見捨てるなど、私にはできません!」
私の必死の訴えに、グレイグは、酔いが醒めたような真剣な目で、じっと私を見つめていた。
「……リナ。それは、偽善だと言われるかもしれんぞ」
グレイグが、静かに言った。
「分かっています」
私は、涙をこらえながら、きっぱりと答えた。
「偽善で、結構です! 自己満足と言われても、構いません! それでも私は、今、目の前で救える命があるのなら、救いたいんです!……お願いします、閣下!」
私は、その場に膝をつき、深く、深く頭を下げた。
周りの将校たちが、戸惑い、ざわめいている。
長い、長い沈黙が流れた。
やがて、グレイグの、大きなため息が聞こえた。
「……分かった」
彼は、椅子から立ち上がると、私の前にしゃがみ込んだ。
「お前の好きにしろ。……ただし、使える薬や人員には限りがある。帝国の兵士の治療を、最優先することが条件だ」
「! はい! ありがとうございます、閣下!」
私は、顔を上げて、何度も頷いた。
「セラ」
グレイグが、私の後ろに立っていたセラ副官に命じる。
「お前は、リナを手伝ってやれ。衛生兵を数名、彼女につけてやれ」
「……はっ。承知いたしました」
セラは、少し驚いたような、しかし、どこか誇らしげな表情で、敬礼した。
その夜から、私のもう一つの戦いが始まった。
私は、書記官の服を脱ぎ、動きやすい服に着替えると、負傷した王国兵が集められた、臨時野戦病院へと向かった。
そこは、呻き声と、血と、死の匂いが満ちた、地獄のような場所だった。
帝国兵たちは、私を「何を考えているんだ」というような、冷たい目で見ていた。王国兵たちは、「敵国の小娘が、何のつもりだ」と、警戒と憎悪の視線を向けてきた。
それでも、私は構わなかった。
衛生兵に教わりながら、傷口を洗い、薬草を塗り、包帯を巻く。一人、また一人と、必死で手当てを続けた。
「……なぜ、俺たちを助ける」
手当てをした若い王国兵が、かすれた声で尋ねてきた。
「……分かりません」
私は、正直に答えた。
「でも、あなたがここで死んだら、きっと、あなたの故郷で誰かが悲しむから。……それだけです」
偽善だと言われてもいい。
自己満足だと、罵られてもいい。
私は、策略家である前に、ただの、一人の人間でありたかった。
月明かりの下、私は、まるで祈るように、傷ついた兵士たちの手当てを続けた。
その小さな背中を、グレイグとセラが、物陰から静かに見守っていることを、私はまだ知らなかった。