第238話:『書庫の探求、影の警告』
孤児院に差し込む午後の光が、床の埃を金色に照らし出す頃。
子供たちの熱狂もようやく落ち着き、私はアガサ院長の小さな執務室で、古い帳簿を広げていた。インクと古紙の匂いが混じるこの部屋は、昔と少しも変わらない。
「リナ。あなたがあの時、整えてくれたおかげで本当に助かっています」
皺の刻まれた院長の指が、綺麗に整理された数字の列を愛おしそうになぞる。
私がここを去る前に再構築した、仕入れルートと簡易的な複式簿記。それらが今もこの家の生命線として息づいていることに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
だが、私の目はその先にあった。
「院長先生。ゴードンさんのお野菜は美味しいですが、冬場は作物が限られてしまいます。この街の市場だけでは、食材の種類にも限界が」
「ええ、そうですわね。ですが……」
私は広げた地図の上に、指で一本の線を引いた。この城塞都市と、今まさに建設が始まろうとしている『中立経済特区』とを結ぶ、まだ存在しない道を。
「もうすぐ、この先に新しい街ができます。たくさんの珍しい食材が集まる、それはそれは賑やかな場所に。そこからなら、冬でも暖かい地方の果物や、もっと栄養のあるお肉が今よりずっと安く手に入るようになります」
確信に満ちた私の言葉に、院長はただ目を丸くするばかりだった。その驚きをよそに、私は羊皮紙にいくつかの商会の名前とその紋章を手早く書きつけていく。
「この商人たちを頼ってください。私の名前を出せば、きっと力になってくれます。子供たちには、もっと美味しいものを、お腹いっぱい食べさせてあげたいですから」
それは未来へのささやかな、しかし確かな布石だった。
院長は、目の前の少女がもはや自分が知るリナではない、遥か遠い場所へ行ってしまったのだという一抹の寂しさと、それでも変わらぬ優しさへの深い感謝に、ただ静かに涙ぐむことしかできなかった。
◇◆◇
その頃、レオンは一人、孤児院の書庫の片隅にいた。
彼はシスター・カリンに「リナ殿が読んでいたという本に興味がありまして」と巧みに言い寄り、書庫への立ち入りを許されていたのだ。夕暮れの光が窓から差し込み、床に長い影を落としている。
(……これか)
見つけたのは、リナが昨夜読んでいた『竜の王様』の絵本。そのページに踊る『古代シルヴァニア語』。
(……やはり。彼女はこれを、まるで母国語のように読んでいた。……語学の才能? 馬鹿な。これは才能というレベルではない。異常だ。彼女は一体、何者なのだ……?)
レオンがその謎の深さに思考を沈ませていた、まさにその時。
カサリ、と背後で本が棚に戻される、ごく自然な音がした。
振り返ると、そこにいたのはあの無口な執事、ゲッコーだった。いつからそこにいたのか、全く気配を感じさせなかった。
「……面白い本が、おありですかな」
ゲッコーが、初めてレオンにまともな長さの言葉をかけた。その声は、古井戸の底から響くように低く、感情がない。
レオンは動揺を押し殺し、手の中の絵本を隠すように背後に回した。
「……いや。少し、この孤児院の蔵書に興味が湧いただけだ」
「ほう」
ゲッコーはゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。その足音は、ほとんどしない。
「……宰相閣下のご子息ともなれば、さぞかし様々な知識をお持ちでしょうか。……例えば、そうですね」
ゲッコーは、レオンが隠した絵本を正確に指し示した。
「その書物に記された古代の言葉。……それらを読み解けるという事の価値についても」
「!」
レオンの背筋を、冷たいものが走り抜けた。自分の思考が、完全に読まれている。
だが、ゲッコーはそれ以上何も言わなかった。
彼はただ、レオンの隣に立つと、同じように埃をかぶった書棚を眺めた。そして、まるで独り言のように、ぽつりと呟いた。
「……リナ様は、優しい御方だ」
唐突な言葉に、レオンは眉をひそめた。
「あの御方は、ご自身が背負うものの重さを、誰よりも理解しておられる。故に、大切な方々を、その重さに巻き込むことを、何よりも恐れておられる」
ゲッコーの視線は、書棚の向こう、遠い何かを見ているようだった。
「……知るべき時が来れば、あの御方は、自らお話しになるでしょう。……ですが、それは今ではない。……信頼に足る方ならば、その時を待つことができるはずです」
それは脅しではなかった。ただ事実を伝える、それだけの響きがあった。
ゲッコーはそれだけ言うと、一礼し、影が伸びる廊下へと音もなく消えていった。
一人残されたレオンは、しばらくその場を動けなかった。
(……信頼……か)
彼は固く握りしめていた拳を、ゆっくりと解いた。
◇◆◇
同じ頃、日が傾き始めた中庭では、別の戦いが繰り広げられていた。
ゼイドが、有り余るエネルギーを持て余し、中庭の隅で静かに警護にあたるヴォルフラムに稽古を申し込んだのだ。
「ヴォルフラム殿! もしよろしければ、一本、稽古をつけてはいただけないだろうか!」
「……承知した」
ヴォルフラムは短く応じ、同じ長さの木の枝を拾う。
「では、参る!」
ゼイドが気合と共に踏み込む。若々しい力に満ちた、鋭い打ち込み。だが、ヴォルフラムは動かない。木の枝が頬を掠める寸前、彼女の身体が柳のようにしなり、最小限の動きでそれを回避する。
「なっ!?」
驚くゼイドの体勢が崩れた、その一瞬。ヴォルフラムの持つ枝が、まるで生き物のように彼の足元を払い、ゼイドは無様に地面に転がった。
「もう一本!」
悔しさに顔を赤らめ、何度も何度も打ち込んでいく。だが、結果は同じだった。彼の全力の攻撃は、ことごとく空を切り、あるいは軽く受け流され、気づけば体勢を崩され、地面に転がされている。
息も絶え絶えになり、泥だらけで大の字に寝転がるゼイドの元へ、私は水の入ったカップを持っていった。
「……お疲れ様です、ゼイド殿」
「……くそっ……! なんだ、あの人は……! 全く、歯が立たない……!」
悔しさに顔を歪めるゼイドに、私は苦笑しながら言った。
「仕方ありませんよ。ヴォルフラムさんは、帝国でも最強と謳われる将軍に、直々に鍛えられた方です。帝国中のどんな屈強な騎士でも、あの人に勝つのは至難の業ですよ」
その言葉に、ゼイドは目を見開いた。剣を交えた今では納得出来るが、彼女がこれほどまでの手練れであったとは。そして、これほどの者が、なぜこの少女の護衛をしているのか。
彼は泥だらけのまま起き上がると、リナから水を受け取り、一気に飲み干した。
「……そうか」
彼の瞳から、悔しさの色が消えていた。代わりに宿るのは、遥か高みを見つけた登山家のような、燃えるような闘志の光だった。
「……ありがとう。……私はまだまだだ」
彼はそれだけ言うと、再び木の枝を握りしめ、ヴォルフラムの元へと向かった。
「ヴォルフラム殿! もう一度、お願いします!」
その真っ直ぐな瞳に、ヴォルフラムもまた、静かに頷き返した。
一応、メモリ不足が原因で、不要な常駐を解除していったところ、動作が問題なくなりました。
メモリ増強考えましょうか...。
やはりギリギリな状態は継続中ということで。




