第237話:『王子、孤児院に泊まる』
聖リリアン孤児院の夜は、子供たちの賑やかな声と、素朴なシチューの温かい匂いで満ちていた。
高い天井まで届きそうな食堂のざわめき。長い木のテーブルには湯気の立つ大鍋が置かれ、シスターたちが手際よく木の皿にシチューを盛り付けていく。その活気は、皇宮の静まり返った食卓とは何もかもが違っていた。
「さあ、お兄さんたちもこっち座って!」
「お貴族様って、本当に毎日ケーキ食べてるの?」
ユリウス皇子たちは、好奇心に満ちた子供たちの濁流に飲み込まれていた。
貴族としてではなく「リナの連れてきた客人」として、彼らは子供たちと同じテーブルで、同じ食事を取ることになったのだ。目の前に置かれたのは、具がごろごろと入った素朴なシチューと、少し硬い黒パン。
レオンは最初、眉をひそめていた。貴族の食卓には決して上ることのない硬いパンを、どうしたものかと指先で弄ぶ。ゼイドもまた、居心地悪そうに背筋を伸ばしたまま、周りの喧騒に戸惑っていた。
だが、子供たちの無邪気な質問攻めは、彼らの心の鎧を容赦なく剥がしていく。
「お兄ちゃん、剣使える?」「見せて見せて!」「かっこいい!」
ゼイドは子供たちに囲まれ、最初は戸惑っていたが、やがて「ふん、少しだけだぞ」とまんざらでもない顔で、鞘に収まったままの剣の装飾を自慢げに見せてやっていた。
ユリウス皇子は、その光景を微笑ましく見守りながら、ふとリナへと視線を移した。
彼女は、自分の食事もそこそこに、一番年下のアンナの口元をナプキンで拭ってやったり、シチューを零しそうになったトムの手を支えたりと、まるで本物の姉のように立ち回っている。その横顔は、昨夜の会食で見せた怜悧な書記官の顔でも、市場で見せた快活な少女の顔でもない。ただひたすらに優しく、温かい光に満ちていた。
その、また一つ見つけた彼女の新たな一面に、ユリウス皇子の胸が静かに高鳴るのを感じた。
ゼイドもまた、子供たちに剣の話をせがまれながら、その視線はいつしかリナの姿を追っていた。
騎士とは、弱き者を守る存在。そう教え込まれてきた。だが、目の前の少女がしていることは、もっと根源的で、温かいもののように思えた。それは「責務」ではない。ただ、そこにある「愛情」。
自分よりもずっと小さいその背中が、この場所にいる誰よりも大きく、頼もしく見えた。
(……これもまた、一つの『強さ』の形なのか……)
ゼイドは、無意識のうちに口元を緩め、どこか照れくさそうに視線を皿の上に戻した。
◇◆◇
やがて食事が終わると、食堂の空気が変わった。
子供たちの期待に満ちた視線が、一点に注がれる。リナによる、絵本の読み聞かせの時間だ。
「リナ姉ちゃん、はやくー!」
「『竜の王様』の続き!」
「はいはい」
リナは苦笑しながら、図書室の隅から埃をかぶった分厚い古書を運んできた。
ユリウス皇子たちは、その光景を少し離れた壁際から見守る。
「『――さて、悪い魔法使いに宝石を盗まれてしまった竜の王様は、悲しみに暮れていました。ですが、そこに一人の賢い小鳥が飛んできて、こう言いました』」
リナの声が、静まり返った食堂に響き渡る。
それは、ただ物語を読み上げているだけではなかった。その声には、聞く者の心を掴み、情景を鮮やかに思い描かせる、不思議な力が宿っていた。子供たちは皆、目をきらきらと輝かせ、完全に物語の世界に引き込まれている。
ゼイドは、物語に登場する勇敢な騎士の姿に、いつしか自分を重ねていた。拳を固く握りしめ、その唇が「行け!」と無意識に動く。
だが、レオンは別のものに戦慄していた。
リナが読んでいる本。そのページに踊る、渦を巻くような奇妙な文字。あれは、父である宰相の書庫で一度だけ見たことがある、誰も読めぬはずの『古代シルヴァニア語』ではないか。
(……まさか。彼女は、本当にこの文字を読んでいるというのか……? ただの書記官ではない。一体、何者なのだ……?)
レオンは、リナという少女の底知れなさに、背筋が冷たくなるのを感じていた。
◇◆◇
子供たちが寝静まった後。
月明かりが、中庭の石畳を青白く照らし、夜風が涼やかに頬を撫でていく。
ユリウス皇子は、眠れずに夜風にあたっていた。そこで、同じように一人、手すりに肘をついて夜空を眺めているリナの姿を見つける。その小さな背中は、昼間の喧騒が嘘のように、どこか儚げに見えた。
「……すごいな、君は」
ユリウス皇子が、抑えきれない感嘆と共にぽつりと呟いた。
私の肩が、驚きに微かに跳ねる。振り返ると、月光を浴びて佇む皇子の姿があった。
「軍の書記官としてだけでなく、ここでは、君は……太陽のような存在なんだな。誰もが、君という光を求めている」
そのあまりに真っ直ぐな言葉に、私はどうしようもなく照れくさくなり、ぷいと顔を背けた。夜空に浮かぶ星屑に視線を逃がす。
「別に、すごくなんかないですよ」
声が、少しだけ震えた。
「ここが、私の帰る場所なだけです。……寒くて、お腹が空いて、どうしようもなかった時に、温かいスープと毛布をくれた場所。……私が『私』でいられる、たった一つの場所」
私は、ぎゅっと手すりを握りしめた。
「……だから、守りたい。ただ、それだけなんです」
その飾らない言葉。
何気ない呟きに込められた、あまりにも深く、そして純粋な想い。
ユリウス皇子は、息を呑んだ。
彼女が背負うものの重さと、その揺るぎない強さの理由を、彼は雷に打たれたように、魂の芯から理解した。
目の前にいるのは、帝国の英雄でも、底知れない賢者でもない。
ただ、かけがえのない宝物を守るために、たった一人で世界に立ち向かうことを決めた、気高き少女なのだと。
月が、雲間に隠れた。
二人の間に、言葉はない。
だが、その静寂は、どんな雄弁な言葉よりも深く、二人の心を繋いでいるかのようだった。
そのやり取りを、レオンとゼイドもまた、少し離れた建物の影から見ていた。
彼らの心の中にあった、リナへの侮りや戸惑いは、もうない。
そこにあるのは、「幼くとも、優しい。利発な娘だ。そして底が全くわからない」という、畏敬にも似た新たな認識だった。




