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ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 私、リナ8歳です ~軍師は囁き、世界は躍りだす~  作者: 輝夜
第十一章:『一年という名の礎』

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第237話:『王子、孤児院に泊まる』

 

 聖リリアン孤児院の夜は、子供たちの賑やかな声と、素朴なシチューの温かい匂いで満ちていた。

 高い天井まで届きそうな食堂のざわめき。長い木のテーブルには湯気の立つ大鍋が置かれ、シスターたちが手際よく木の皿にシチューを盛り付けていく。その活気は、皇宮の静まり返った食卓とは何もかもが違っていた。


「さあ、お兄さんたちもこっち座って!」

「お貴族様って、本当に毎日ケーキ食べてるの?」


 ユリウス皇子たちは、好奇心に満ちた子供たちの濁流に飲み込まれていた。

 貴族としてではなく「リナの連れてきた客人」として、彼らは子供たちと同じテーブルで、同じ食事を取ることになったのだ。目の前に置かれたのは、具がごろごろと入った素朴なシチューと、少し硬い黒パン。


 レオンは最初、眉をひそめていた。貴族の食卓には決して上ることのない硬いパンを、どうしたものかと指先で弄ぶ。ゼイドもまた、居心地悪そうに背筋を伸ばしたまま、周りの喧騒に戸惑っていた。

 だが、子供たちの無邪気な質問攻めは、彼らの心の鎧を容赦なく剥がしていく。


「お兄ちゃん、剣使える?」「見せて見せて!」「かっこいい!」

 ゼイドは子供たちに囲まれ、最初は戸惑っていたが、やがて「ふん、少しだけだぞ」とまんざらでもない顔で、鞘に収まったままの剣の装飾を自慢げに見せてやっていた。


 ユリウス皇子は、その光景を微笑ましく見守りながら、ふとリナへと視線を移した。

 彼女は、自分の食事もそこそこに、一番年下のアンナの口元をナプキンで拭ってやったり、シチューを零しそうになったトムの手を支えたりと、まるで本物の姉のように立ち回っている。その横顔は、昨夜の会食で見せた怜悧な書記官の顔でも、市場で見せた快活な少女の顔でもない。ただひたすらに優しく、温かい光に満ちていた。

 その、また一つ見つけた彼女の新たな一面に、ユリウス皇子の胸が静かに高鳴るのを感じた。


 ゼイドもまた、子供たちに剣の話をせがまれながら、その視線はいつしかリナの姿を追っていた。

 騎士とは、弱き者を守る存在。そう教え込まれてきた。だが、目の前の少女がしていることは、もっと根源的で、温かいもののように思えた。それは「責務」ではない。ただ、そこにある「愛情」。

 自分よりもずっと小さいその背中が、この場所にいる誰よりも大きく、頼もしく見えた。

(……これもまた、一つの『強さ』の形なのか……)

 ゼイドは、無意識のうちに口元を緩め、どこか照れくさそうに視線を皿の上に戻した。


 ◇◆◇


 やがて食事が終わると、食堂の空気が変わった。

 子供たちの期待に満ちた視線が、一点に注がれる。リナによる、絵本の読み聞かせの時間だ。


「リナ姉ちゃん、はやくー!」

「『竜の王様』の続き!」


「はいはい」

 リナは苦笑しながら、図書室の隅から埃をかぶった分厚い古書を運んできた。

 ユリウス皇子たちは、その光景を少し離れた壁際から見守る。


「『――さて、悪い魔法使いに宝石を盗まれてしまった竜の王様は、悲しみに暮れていました。ですが、そこに一人の賢い小鳥が飛んできて、こう言いました』」


 リナの声が、静まり返った食堂に響き渡る。

 それは、ただ物語を読み上げているだけではなかった。その声には、聞く者の心を掴み、情景を鮮やかに思い描かせる、不思議な力が宿っていた。子供たちは皆、目をきらきらと輝かせ、完全に物語の世界に引き込まれている。


 ゼイドは、物語に登場する勇敢な騎士の姿に、いつしか自分を重ねていた。拳を固く握りしめ、その唇が「行け!」と無意識に動く。

 だが、レオンは別のものに戦慄していた。

 リナが読んでいる本。そのページに踊る、渦を巻くような奇妙な文字。あれは、父である宰相の書庫で一度だけ見たことがある、誰も読めぬはずの『古代シルヴァニア語』ではないか。

(……まさか。彼女は、本当にこの文字を読んでいるというのか……? ただの書記官ではない。一体、何者なのだ……?)

 レオンは、リナという少女の底知れなさに、背筋が冷たくなるのを感じていた。


 ◇◆◇


 子供たちが寝静まった後。

 月明かりが、中庭の石畳を青白く照らし、夜風が涼やかに頬を撫でていく。

 ユリウス皇子は、眠れずに夜風にあたっていた。そこで、同じように一人、手すりに肘をついて夜空を眺めているリナの姿を見つける。その小さな背中は、昼間の喧騒が嘘のように、どこか儚げに見えた。


「……すごいな、君は」


 ユリウス皇子が、抑えきれない感嘆と共にぽつりと呟いた。

 私の肩が、驚きに微かに跳ねる。振り返ると、月光を浴びて佇む皇子の姿があった。


「軍の書記官としてだけでなく、ここでは、君は……太陽のような存在なんだな。誰もが、君という光を求めている」


 そのあまりに真っ直ぐな言葉に、私はどうしようもなく照れくさくなり、ぷいと顔を背けた。夜空に浮かぶ星屑に視線を逃がす。


「別に、すごくなんかないですよ」


 声が、少しだけ震えた。


「ここが、私の帰る場所なだけです。……寒くて、お腹が空いて、どうしようもなかった時に、温かいスープと毛布をくれた場所。……私が『私』でいられる、たった一つの場所」


 私は、ぎゅっと手すりを握りしめた。

「……だから、守りたい。ただ、それだけなんです」


 その飾らない言葉。

 何気ない呟きに込められた、あまりにも深く、そして純粋な想い。

 ユリウス皇子は、息を呑んだ。

 彼女が背負うものの重さと、その揺るぎない強さの理由を、彼は雷に打たれたように、魂の芯から理解した。

 目の前にいるのは、帝国の英雄でも、底知れない賢者でもない。

 ただ、かけがえのない宝物を守るために、たった一人で世界に立ち向かうことを決めた、気高き少女なのだと。


 月が、雲間に隠れた。

 二人の間に、言葉はない。

 だが、その静寂は、どんな雄弁な言葉よりも深く、二人の心を繋いでいるかのようだった。


 そのやり取りを、レオンとゼイドもまた、少し離れた建物の影から見ていた。

 彼らの心の中にあった、リナへの侮りや戸惑いは、もうない。


 そこにあるのは、「幼くとも、優しい。利発な娘だ。そして底が全くわからない」という、畏敬にも似た新たな認識だった。



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― 新着の感想 ―
孤児院の書庫にある書物なら寄付が何らかの施しであろうに、古語で書かれた童話本人とは、貴族あたりが自宅の書庫から読めない書物の処分として寄付したのかな。
二度目の投稿ですが、失礼します。パソコンの具合が悪悪く、投稿が滞るかもと聞いて、心がざわめきます。というのも、毎日、お昼の投稿をとても楽しみにしており、昼になると他のことは放っておいて、スマホのブラウ…
2025/11/09 15:45 輝夜さん、パソコンの調子についてです。
更新お疲れ様です。 騒がしくも暖かい孤児院の日常^^ リナの新しい一面を見てドギマギするユリウスがいいですね。 次回も楽しみにしています。
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