第236話:『故郷の風、皇子の戸惑い』
宿場町の朝が、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、遠くで響く鶏の鳴き声で満たされていく。昨夜の食卓を支配した重い沈黙の残り香が、まだ空気中に漂っているかのようだ。
やがて二つの馬車は再び土煙を上げ、北を目指す。先を行くユリウス皇子たちの馬車。その後ろを影のように続く私たちの馬車。二台の間に空けられた距離が、互いの心の隔たりを雄弁に物語っていた。
昼食のための野営地は、街道から少し逸れた、小川のせせらぎが聞こえる穏やかな木立の中だった。陽光が木々の葉を透かし、地面に揺れる光の斑点を描いている。
セラとヴォルフラムが手際よく火を起こし鍋を準備する傍らで、私もごく自然にその手伝いを始めていた。川の冷たい水で泥のついた野菜を洗い、小さなナイフで手際よく皮を剥いていく。孤児院で毎日繰り返した、体に染みついた作業だ。刃先が滑るように動くその無心な時間が、旅の緊張をわずかに解きほぐしてくれる。
その光景を、少し離れた場所から二つの視線が射抜いていた。
レオンとゼイド。
彼らは木陰に腕を組み、まるで不可解な生き物でも観察するかのように、私から目を離さない。
奇妙だ、とレオンは眉根を寄せた。
貴族でもないただの書記官が、なぜ皇子の前でこれほど自然体でいられる。皇子殿下の存在など意にも介していないかのように、黙々と手を動かしている。護衛のセラ殿もヴォルフラム殿も、彼女をまるで主君のように扱い、その一挙手一投足に注意を払う。尋常ではない。
ゼイドもまた、別の種類の戸惑いを覚えていた。
なんと滑らかな動きだ。だが、あれは貴族令嬢が嗜む料理の手伝いなどではない。もっと生活に根差した、生きるための動きそのものだ。泥を落とす白い指先に刻まれた、いくつもの小さな傷跡。ペンを握るだけの書記官の手ではない。
ユリウス皇子は、そんな二人の戸惑いと、何も知らないふりをして働く私の間で、ただ立ち尽くしていた。秘密を共有しているという事実が、彼の行動をぎこちなくさせる。
「リナ殿! そ、そんなことは僕が……!」
私が薪を拾い集めようとすると、彼は慌てて駆け寄ってくる。だが、その手をセラがやんわりと制した。
「皇子殿下。お手を汚されることではございません。ここは我々にお任せください」
完璧で、しかし有無を言わせぬ壁に阻まれ、ユリウス皇子は所在なげに行き場のない手を彷徨わせるしかない。その様子を、私は薪を抱えたまま、少しだけ面白そうに盗み見ていた。
◇◆◇
数日後、一行は私の故郷である城塞都市に到着した。
帝都の壮麗さとは違う、土と汗の匂いが染みついた活気が通りに満ちている。道を行き交う人々の顔には、日々の暮らしが色濃く刻まれていた。
市場を通り抜ける際、野菜を山と積んだ露店の恰幅のいい女主人が、私の姿を見つけ、太陽のような笑顔で手を振った。
「おやまあ、リナちゃんじゃないか! しばらく見ないうちに、また別嬪さんになったねぇ!」
私も馬車の窓から顔を出し、年の離れた友のように軽口で返す。
「マルタおばさんこそ相変わらず繁盛してるみたいで安心したよ! その分、お腹も大きくなったんじゃない?」
私の悪戯っぽい言葉に、彼女は「こんのガキゃあ!」と威勢よく笑い声を上げ、真っ赤に熟れたトマトを一つ、ひょいと馬車の中に投げ入れてくれた。
「ほれ、持っていきな! 旅の足しにしな!」
年齢も立場も越えたその親密な光景に、レオンはますます眉間の皺を深くし、ゼイドは興味深そうに目を細める。ユリウス皇子だけが、彼女がこれほど民に愛されていることを知り、どこか誇らしげにそのやり取りを微笑ましく見つめていた。
◇◆◇
やがて一行は、街の一角にある古びた建物――聖リリアン孤児院の前にたどり着く。
石壁には蔦が絡みつき、風雨に晒された鉄門は悲鳴のような軋み音を立てた。レオンとゼイドは、そのあまりの貧しさに言葉を失う。
「……ここが、彼女の……?」
私は馬車を降りると、ユリウス皇子たちに向き直り、静かに、しかしきっぱりと告げた。
「ここが、私の家です。ここでの私は、ただのリナ。特別なもてなしはできません。子供たちが、皆様に無礼を働いてしまうかもしれません。もし、それをご容赦いただけないのであれば、街の宿を手配いたしますが」
その言葉に、レオンとゼイドは顔を見合わせる。貴族としての矜持が、彼らに即答をためらわせた。
その空気を破ったのは、ユリウス皇子だった。彼は馬車から降り立つと、二人に厳命する。
「ここでは、帝都での身分も作法も一切忘れよ。これは、皇子としての命令だ」
そして私に向き直ると、真摯な瞳で言った。
「我々も、ここで世話になりたい。孤児院の本当の姿を、この目で見ておきたいから」
その言葉に、レオンとゼイドは渋々ながらも頷くしかなかった。
門が開かれると同時に、「リナ姉ちゃんだー!」という歓声が弾け、子供たちが小さな奔流となって飛び出してくる。私はその波に飲み込まれ、もみくちゃにされた。
「おかえり!」「会いたかったよ!」
その中心で、私の顔には、これまで彼らが見たこともない、心からの屈託のない笑顔が咲いていた。院長のアガサとシスター・カリンが、涙ぐみながら私を強く抱きしめる。
ユリウス皇子は、その温かい光景にただ胸を打たれていた。
これが、彼女が守りたかった世界。
これが、あの『天翼の軍師』の素顔なのだと、彼は理解した。
だが、レオンは違った。
彼は喧騒からそっと離れ、リナの帰還に涙ぐむシスター・カリンにごく自然に近づく。貴公子然とした完璧な笑みを浮かべ、絹のように滑らかな声で話しかけた。
「これは、素晴らしい光景ですな。リナ殿は、皆に愛されて育ったのですね」
「え、ええ。リナは昔から、とても賢くて、優しい子でしたから……」
「なるほど。確か、彼女は書記官として軍に徴用されたと伺いました。ですが、これほどお若い方が、一体どのようなお仕事を? ご存じでしたら、教えてはいただけませんか」
その問いに、カリンは少し困ったように眉を寄せた。
「そ、それは……私たちも詳しくは。ただ、軍の偉い方が直々にいらして……とても重要で、リナにしかできないお仕事だと。あの子、昔から難しい言葉の古い本を読むのが好きでしたから、きっとそういう……」
語学と計算の才能。それだけで、皇子の旅路が左右され、皇帝陛下直々の書簡まで用意されると? 馬鹿な。話が繋がらない。
レオンの中で、一つの結論が形を成し始めていた。
このシスターは真実を知らないか、あるいは、一部しか知らされていない。どちらにせよ、この旅には我々が知らされていない何かがある。
レオンが一人思考を巡らせ、孤児院の裏手にある人目につかない井戸端まで来た、その時だった。
背後の物置小屋の影が、ゆらりと人の形を成した。いつからそこにいたのか、全く気配がなかった。現れたのは、あの無口な執事、ゲッコーだった。
「っ!」
レオンは驚きに息を呑むが、宰相の息子としての矜持が、彼に平静を装わせる。
「……これは、ゲッコー殿。何か御用ですか」
ゲッコーは何も答えない。ただ、感情の読めない瞳でじっとレオンを見つめている。値踏みするような、あるいは警告するような、凍てつく視線。鉛のような沈黙の中、井戸から滴る水の音だけがやけに大きく響いた。
やがて、ゲッコーが地を這うような低い声で、短く、しかし刃のように鋭く告げた。
「……詮索は、無用」
その一言に、レオンの背筋を冷たいものが走り抜けた。自分の行動が、全て見透かされていた。
「知るべき時が来れば、知ることになる。それまでは、お静かに」
ゲッコーはそれだけ言うと、再び影に溶けるように音もなく姿を消す。後に残されたのは、滴る水の音と、レオンの早鐘のように鳴る心臓の音だけだった。
レオンは固く拳を握りしめる。
恐怖ではない。むしろ、彼の知的好奇心と闘争心に、火が点いたのだ。
……面白い。
この旅は、実に面白いじゃないか。




