第235話:『皇子からの密書』
車輪が刻む轍は、工事の喧騒を遥か後方へと置き去りにしていた。乾いた土煙を巻き上げながら、北を目指す数台の馬車。その規則的な揺れに身を任せ、私は過ぎゆく景色をただ眺めていた。
陽が山の稜線に落ち、空が茜色から深い藍へと移ろう頃、私たちの隊列は街道沿いの宿場町にたどり着いた。馬のいななきと人々のざわめきが混じり合う中、今宵の宿となる『木漏れ日亭』の看板が、ランタンの灯りに優しく揺れている。木の香りが漂う清潔な宿屋の食堂は、旅人たちの活気と、湯気の立つ猪肉のシチューの匂いで満ちていた。
ランタンの柔らかな光がテーブルを照らす中、シチューに匙を伸ばした、その時だった。宿の扉が軋み、新たな客の影が食堂の喧騒をわずかに凪がせた。
「おや、これは奇遇ですな」
その声に顔を上げると、見覚えのある巨躯がそこに立っていた。熊のように大きな体。無理やり口角を引き上げ、頑張って作りました、と言わんばかりの笑顔。ポルト・アウレオで警護されていた海兵さんだ。小さな子供ならきっと泣き出すに違いないその引き攣った笑顔に、私は内心でため息をついた。
その背後には、旅装でも気品を隠せないユリウス皇子と、見慣れない二人の若者が緊張した面持ちで控えている。
偶然。あまりに完璧に仕組まれた、茶番じみた偶然だった。
宿の主人が、待ってましたとばかりに駆け寄り、テーブルを繋げて即席の大きな食卓を用意する。その手際の良さが、全てを物語っていた。
◇◆◇
その頃、宿屋の裏手。馬小屋の深い影の中。
藁の匂いと馬の寝息だけが満たす暗がりに、ゲッコーさんが音もなく姿を現した。
「……ご苦労」
「オウッ! こちらこそ! して、そちらの『お嬢様』のご様子は?」
ダリオの問いに、ゲッコーさんは短く答える。
「……問題ない。お前たちの部隊もだ」
ゲッコーさんの視線が、ダリオの背後に控える男たちへと注がれる。アクア・ポリスで魚屋や恋人を演じていた海兵たちだ。彼らは互いに無言で頷き合う。静かな面通しだった。
◇◆◇
ぎこちない空気が、食卓を支配していた。
カトラリーが皿に触れる音だけが、やけに大きく響く。
私は努めて平静を装い、「書記官」として今回の旅の概要をユリウス皇子たちに説明した。
「……まずは、私の故郷であります聖リリアン孤児院に数日立ち寄り、その後、北壁の砦へ向かう予定です」
「孤児院に、数日だと?」
すぐに反応したのは、騎士見習いのゼイドと名乗った青年だった。彼は眉根を寄せ、ナイフを皿にカツンと置く。その実直そうな顔つきに、隠しきれない不満が浮かんでいた。
「我々は北部の『視察』という勅命を帯びているはず。そのような場所に立ち寄るのは、時間の無駄ではないか?」
その口調には、年下の、しかも孤児院出の書記官へのあからさまな侮りが滲んでいた。
隣で優雅にパンをちぎっていたレオンも、唇の端に皮肉な笑みを浮かべて言葉を添える。
「……随分と、悠長な旅程ですな。我々は物見遊山に来たわけではないのですが」
彼の言葉は貴族らしく丁寧だが、その知的な瞳はこちらの器量を試すように、冷ややかに細められていた。
「い、いや、二人とも! それは……!」
ユリウス皇子が慌てて割って入ろうとする。だが、それより早く、私の声がその場の空気を凍てつかせた。
「ええ。ですから、もしお急ぎでしたら、皆様はここで別行動を取られ、先の街で落ち合うという形でも構いませんが」
私はシチューを一口運び、ゆっくりと飲み込んでから、顔を上げた。私の声は、熱気立つ食堂の空気を切り裂くほどに、静かで、冷たかった。一切の媚びも揺らぎもない、子供らしからぬその圧力に、レオンとゼイドは一瞬言葉に詰まる。
「――いや!」
ユリウス皇子が、ここぞとばかりに声を張り上げた。
「我々も、ぜひ同行させていただきたい! 帝国の未来を担う者として、民の暮らし、そして孤児院の現状を知ることは、何よりも重要な学びとなるはずだ!」
皇子の鶴の一声。
レオンとゼイドは不満を顔に滲ませながらも、「……殿下が、そうおっしゃるのであれば」と、渋々引き下がるしかなかった。私と二人の間に、早くも見えない火花が散る。
◇◆◇
食事が終わり、一同が部屋へと向かう廊下の片隅。軋む床板の音が響く薄暗がりで、ユリウス皇子が私を呼び止めた。レオンとゼイドは、不思議そうな顔をしながらも、皇子の目配せに従い先へと進んでいく。
二人きりになったところで、ユリウス皇子は周囲を窺うように視線を一度巡らせ、それから意を決したように懐へ手を入れた。取り出されたのは、皇帝陛下の印璽で固く封蝋された一通の書簡。緊張で強張る指先が、それをそっと私に差し出した。
「父上からだ。……これを読んで、判断してほしい、と」
私はその場で封蝋を指で破った。ランタンの揺れる光が、皇帝直筆の、力強くも温かみのある文字を照らし出す。
『レオンとゼイドは、余が選び抜いた信頼に足る若者である。彼らであれば、そなたの真の姿を明かしても差し支えあるまいと考える。
されど、最終的な判断はそなたに一任する。もし、そなたがそれを望まぬのであれば、ユリウスの同行は断念させよう。
しかし、彼らの成長を思うならば、どうかこの若者たちを受け入れてやってはくれまいか。』
書簡から顔を上げると、私は静かに息を吐いた。皇帝と皇妃の、どこまでも過保護な愛情が、その格調高い文面から痛いほど伝わってくる。
(……どうせ、帝都の『影』には、とうに知られていることでしょうし)
私は観念して、ユリウス皇子に向き直った。
「……分かりました。お引き受けいたします」
そして、私は『天翼の軍師』としての顔で、若き皇子に条件を提示する。その瞬間、私の纏う空気が書記官のそれから、戦場を支配する者のものへと変わった。
「ただし、ユリウス皇子。彼らに私の正体を明かすのは、そうせざるを得ない最後の瞬間まで待ちます。それまでは、私も、あなたも、この『偶然の旅』を演じ続けましょう。……よろしいですね?」
有無を言わせぬ光を宿した瞳に見据えられ、ユリウス皇子はごくりと喉を鳴らし、力強く頷いた。
「ああ、分かった。……よろしく、頼む。リナ殿」
力強く頷く皇子の背中を見送り、私は自室へと戻った。窓の外では、月が静かに旅路を照らしている。




