第234話:『若獅子たちの旅路』
帝都皇宮の空気は、まだ夜の名残を留めてひんやりと澄み渡っていた。
皇帝ゼノンの私室。
磨き上げられた大理石の床に、高い窓から差し込む朝陽が金の筋を描いている。その光の中、三人の若者が石像のように直立していた。背筋を伸ばし、固く結ばれた唇は、内に秘めた緊張を物語る。
第一皇子ユリウス。
その半歩後ろに、宰相アルバートの息子、レオンが控える。年の割に落ち着いた知的な光を瞳に宿し、ユリウスとは実の兄弟同然に育った。
そしてもう一人。近衛騎士団長の息子であり、若くしてその剣才を嘱望される騎士見習いのゼイド。実直そうな顔つきに、まだ少年らしいあどけなさが残る。
玉座に深く身を沈めた皇帝が、静寂を破った。その声は低く、部屋の隅々まで重々しく響き渡る。
「――ユリウス。かねてより願い出ていた諸国への見聞の旅、これを許可する」
「はっ!」
ユリウスの声が、抑えきれない歓喜にわずかに上擦った。
「同行を許すは、レオンとゼイド。護衛にはエンリコ少将が選抜した歴戦の元海兵たちが、商人の供回りを装い付く。ゆめ、心せよ」
皇帝はそこで一度言葉を切り、射るような視線をレオンとゼイドに向けた。
「表向きの目的は『帝国北部の実情視察』。だが、そなたらにはもう一つの任についてもらうやもしれん」
「……と、申されますと?」
レオンが、冷静さを崩さぬまま問い返す。
「うむ。現在、一人の書記官が先に北へ向かっておる。皇帝直々の密命を帯びた、極めて重要な人物だ。……もしその者が許すならば、そなたらにはその旅に合流し、見聞を広めてもらう」
書記官。
その地味な役職と「極めて重要」という言葉の、あまりの乖離。レオンとゼイドは思わず視線を交わした。
レオンの知的な瞳が、探るように鋭く細められる。
「陛下がそこまで仰せになる書記官とは、一体……。寡聞にして、そのような人物は存じ上げませんが」
ゼイドもまた、純粋な疑問を口にした。
「書記官、でございますか? 我々がその方の足手まといになるのでは……」
問いに対し、皇帝はただ、面白がるように口の端を吊り上げた。
「それは、会ってからのお楽しみだ。下がって良い。準備を怠るな」
「「はっ!」」
一礼した二人は、新たな謎への好奇心を胸に、静かに部屋を退出していった。
重厚な扉が閉まる音が響き、私室には父と子だけが残された。
静寂の中、皇帝は玉座から立ち上がると、ゆっくりとユリウスの前へ歩み寄る。その大きな手が、息子のまだ華奢な肩に、ずしりと置かれた。
「ユリウスよ。本当の目的を話そう」
その声は、帝王の威厳ではなく、父親としての温かみを帯びていた。彼は息子の目を、まっすぐに見据える。
「お前には、『天翼の軍師』の旅に合流してもらいたい」
「――ッ!」
ユリウスは息を呑んだ。心臓が大きく跳ね、驚きと予期せぬ使命への困惑がその顔をよぎる。
「その目で彼女の仕事ぶりを学び、そして何よりも、彼女の『友人』として心を支えてやれ。……あの子は、あまりに多くのものを一人で背負いすぎている」
皇帝は懐から、赤い封蝋で固く閉じられた一通の手紙を取り出した。
「これを、リナに渡せ。……だが、もし彼女が仲間たちに正体を明かすことを望まぬのなら、何も言わず引き返してくるのだ。良いな?」
それは、リナの意思を最大限に尊重するという、皇帝なりの深い配慮だった。
突然の、そしてあまりに重大な密命。リナの力になれるという喜び。父に認められたという誇り。未来の皇帝としての責任。いくつもの熱い感情が、ユリウスの胸を駆け巡り、込み上げてくる。
彼は震える指で、その手紙を恭しく受け取った。
「――御意に! このユリウス、必ずや父上のご期待に応えてみせます!」
力強い誓いに、皇帝はただ、満足げに深く頷き返した。
◇◆◇
数日後、馬車の前で、ユリウスたちは旅の供をする者たちと顔を合わせていた。その中心に立つ男を見て、三人は思わず言葉を失う。
御者台に立つには、あまりに不釣り合いな巨漢だった。潮風に削られたような深い皺、岩のように硬質な肌。分厚い胸板は歴戦の海兵そのものだ。
男は胸にゴツリと拳を当て、腹の底から響くような声で名乗りを上げた。
「お初にお目にかかります、皇子殿下! 自分は、皆様の御者を務めますダリオと申します! エンリコ少将閣下より『何があっても皇子殿下方を無事にお届けしろ。ただし、決して目立つな』との、大変矛盾したご命令を拝しております!」
彼はそう言って、ニカッと歯を見せた。鬼のように厳つい顔に浮かぶ、ひどくぎこちない笑顔は、まるで小さな子供を安心させようと必死に表情筋を動かしているかのようだ。
「我ら元より、ロッシ中将閣下の下で毎朝地獄を見ておりました故、体力と根性には自信アリ! 馬車の操縦も、嵐の中の船よりは容易いかと! どうぞご安心の上、お乗りください! オウッ!」
海兵独特の短い気合と共に完璧な敬礼を決める。その背後では、商人の供回りを装った他の護衛たちが佇んでいた。果物売りの荷車を引く男の手は、ナイフの扱いに慣れた者のそれだし、寄り添う恋人同士を装う男女の視線には甘さのかけらもなく、常に鋭く周囲を警戒している。
頼もしくも一風変わった護衛たちに促され、三人は馬車へと乗り込んだ。
その直前、ごく普通の身なりの物売りが何気なく馬車のそばを通り過ぎ、一瞬だけ、御者台のダリオと視線を交わす。ダリオが誰にも気づかれぬよう微かに頷くと、男は雑踏の中へと溶けていった。
車内では、早速レオンが分厚い歴史書を広げ、ユリウスに問いかけた。
「しかし殿下、陛下が仰っていた書記官とは、一体どのような方なのでしょう。陛下が直々に名を挙げるなど、前代未聞ですが」
その問いに、ゼイドも興味津々といった顔で頷く。
「そうだ。我々が同行するかもしれないとは、よほどの傑物なのだろう。何かご存知か?」
二人の純粋な好奇心に満ちた視線を受け、ユリウスは内心で冷や汗をかいた。平静を装い、咳払いを一つ。
「あ、ああ。……僕も詳しくは知らないんだ。ただ、父上が大変信頼を寄せている、少し……変わった人物だと聞いている」
「変わった、ですか?」
「う、うん。とても若いが、大人顔負けの知識を持っているとか……。だから、僕たちも色々と学べるだろう、と」
その歯切れの悪い説明に、レオンは一瞬だけ怪訝そうに眉をひそめ、何かを察したようにそれ以上は追及しなかった。
馬車が石畳の上を走り出す。ガタガタという心地よい振動と共に、帝都の喧騒が遠ざかっていく。
ユリウスは、これから始まる未知の旅とリナとの再会、そしてこの大きな秘密を抱えたまま仲間と旅を続けることの難しさに、期待と不安をない交ぜにしながら、固く唇を結んだ。




