第232話:『主君のわがまま、侍女長の微笑み』
朝の光が、磨き上げられた窓から差し込み、ダイニングルームに柔らかな光の筋を描いていた。銀食器が皿に触れるかすかな音だけが響く、静謐な朝。帝都の屋敷で過ごす、息詰まる日々の終わりを告げる最後の朝食だった。
私がスープ皿から顔を上げると、侍女長であるクララさんが、音もなくテーブルの片付けを始めていた。その完璧な所作は、まるで水が流れるかのようになめらかで、一切の無駄がない。
今日、私はこの鳥籠から、再び北の荒野へと飛び立つのだ。
意を決し、私はナプキンを置くと、静かに彼女を呼び止めた。
「クララさん。一つ、お願いがあります」
私の声に、彼女の動きがぴたりと止まる。そして、穏やかな微笑みをたたえたまま、ゆっくりとこちらへ振り返った。その微笑みは、どんな時も決して崩れることのない、完璧な仮面のようだった。
「何なりと、リナ様」
ごくりと喉が鳴る。この数日間で最も勇気を要する言葉を、私は震える唇から絞り出した。
「……次に戻ってきた時は、その……お風呂とか、着替えとか……侍女の方々のお手伝いなしで、自分でやりたいのですが……」
その瞬間。
クララさんの完璧な微笑みが、能面のようにぴしりと凍りついた。部屋の空気が、まるで冬の朝のように数度下がった気がする。
「……リナ様。それは、いささか……」
彼女は言葉を探すようにわずかに目を伏せたが、再び顔を上げた時には、いつもの完璧な笑顔に戻っていた。だが、その目は全く笑っていない。冷ややかな光だけが、そこにあった。
「そのようなわけには、まいりません。リナ様のお身の安全を確保し、健やかにお過ごしいただくことこそ、我ら侍女に課せられた至上の務めにございますので」
どこまでも丁寧で、しかし一切の反論を許さない鉄壁の返答。それに、私はついに最後の手段を繰り出した。
「――じゃないと、もうこのお屋敷には帰ってきません」
子供じみた、ただのわがまま。だが、私は彼女の瞳をまっすぐに見つめ、そこに絶対的な覚悟を込めた。
クララさんの微笑みが、再びガラス細工のように凍りつく。
長い、長い沈黙が落ちた。ランプの油が揺れる音さえ聞こえそうな静寂の中、彼女の頭の中で恐るべき速度の計算が行われているのが、肌で感じられるようだった。
やがて、彼女は深々と、まるで敗北を認める騎士のように頭を下げた。
「…………承知、いたしました」
その声は、絞り出すようで、ひどく悔しそうに床に落ちた。
だが、顔を上げた彼女の唇には、再び完璧な微笑みが浮かんでいた。
「ですがリナ様。一つだけ、ご理解いただきたく存じます」
「……何でしょう」
「わたくしどもは、リナ様個人にお仕えしているのではございません。我らが真に忠誠を誓うは、皇妃セレスティーナ陛下ただお一方。その皇妃陛下より、『この国の至宝たるリナ様を、いかなる脅威からもお守りし、健やかにお過ごしいただくこと』を、至上命令として拝しております」
クララの声は静かだったが、その一言一句に鋼のような意志が込められていた。
「もし、リナ様がご自身でお支度をなされている間に、万が一にもお怪我をされたり、体調を崩されたりすれば……それは、我らが皇妃陛下からの御下命を果たせなかったことに他なりません」
彼女はそこで一度言葉を切り、悲しげに瞳を伏せた。
「皇妃陛下の信頼を裏切る。それは、我ら侍女にとってとても重い……その責めを負う覚悟は、とうにできております。ですが、リナ様のお世話が行き届かぬことで、結果として皇妃陛下にご心労をおかけしてしまうことは……わたしには、耐えられませぬ」
ただ、主君を敬愛する者としての、痛切なまでの真心だけがあった。
(……うわあああ、ずるい! その言い方はずるいです、クララさん!)
皇妃様が私のことをどれだけ大切に思ってくれているか。それを知っているからこそ、この言葉は私の良心に深く、鋭く突き刺さる。私がわがままを通すことで、皇妃様を悲しませることになる。それは、絶対に嫌だ。
「……そ、そこまで言われると……」
私は完全に、彼女の築いた論理の城壁に追い詰められていた。
「……わ、分かりました……」
蚊の鳴くような声で、私は降参を宣言した。
「……お風呂も、着替えも……その、今まで通りで、結構です……から……」
その言葉を待っていたかのように、クララさんの顔がぱあっと花開くように輝いた。
「まあ! ありがとうございます、リナ様! なんと慈悲深いお方でしょう! これからも、我々一同、身命を賭してお仕えいたしますわ!」
そして彼女は、完璧な淑女の礼と共に、とどめを刺すように問いかける。
「では、他に何かご用はございますか?」
「…………ありません……」
完敗だった。私は力なく首を振り、その場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。
◇◆◇
壮麗な屋敷の門前には、セラさんたちが既に旅支度を整えて待っていた。朝の冷たい空気が、火照った頬に心地よい。
「リナ様、お話は終わりましたか?」
出迎えてくれたセラさんの声に、私はぐったりと肩を落とした。
「……ええ。……見事に、玉砕しました……」
私の様子に、セラさんは「あらあら」と、楽しそうに微笑むだけだった。
馬車はゆっくりと動き出し、クララさん達に見送られながら帝都の硬い石畳を離れ、北へと続く街道へと進路を取る。
窓枠に肘をつき、遠ざかっていく屋敷を見つめながら、私は静かに心に誓った。
(……見ててください、クララさん。次こそは……!)
◇◆◇
その頃、帝都の中枢たる皇宮では、皇帝と皇妃がテラスでチェス盤を挟んでいた。柔らかな陽光が、象牙でできた駒を白く輝かせている。
「……行ってしまったな」
皇帝が、リナが去っていったであろう街並みを眺めながら、ぽつりと呟いた。
「ええ。ですが、あの子はきっと、また一回り大きくなって帰ってまいりますわ」
皇妃はそう言うと、白のクイーンを一つ、滑るように進めた。盤上の支配者が変わる、静かな一手だった。
「大きくなったといえば陛下。ユリウスの件は、どうなさるおつもりで?」
「ユリウス?」
「『見聞を広めるため、諸国を旅したい』と、先日願い出ておりましたでしょう? アルバートの息子のレオン君や、騎士見習いのゼイド君も同行させては、と」
皇妃の言葉に、皇帝は「ああ、そういえば……」と、少し面倒くさそうに眉を寄せた。
「若いうちに外の世界を見るのは良いことだ。ロッシとエンリコに話して、腕利きの護衛と良い教師が見つかれば許可しようと思うておるが……」
「まあ、それもよろしいですけれど」
皇妃は、悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「……いっそ、リナと一緒に行かせてみては、いかがですこと?」
その、あまりに突飛な提案に、駒を摘まもうとしていた皇帝の動きがぴたりと止まった。
やがて、その口元に、いつもの獰猛な笑みが浮かぶ。
「……それは、面白いかもしれんな」
「確か、リナの旅程では一度、経済特区へ向かうとか。ならば、聖リリアンのある城塞都市までには、落ち合うことも可能ですわ。」
「……ふむ、面白い。実に面白いかもしれん」
チェス盤の上で、二人の視線が交錯する。
彼らの頭の中では、娘同然の少女と、まだ頼りない息子の未来が、一つの盤上で新たな物語を紡ぎ始めていた。
「それと、あなたはどうなさるおつもり? リナを、いつまでも書記官のままにしておくわけにはいかないでしょう」
皇妃が、チェスの次の手を探るように、静かで鋭い問いを投げかける。
「……あのような規格外の存在を、帝国の、ましてや皇族の枠に収めることもできまい。それに、嫉妬深い貴族どもが黙っておるまい」
「ええ、そうですわね」
皇妃は、まるで分かりきっていたかのように頷く。
「ユリウスも、もうすぐ十一。そろそろ、妃候補も真剣に考えねばならない時期ですわね。弟のセドリックや妹のシャルロッテも、いずれは同じ道を辿るのですから」
そして、皇妃はさらに瞳を輝かせた。
「そうですわ、陛下。今度リナとユリウスが帝都に戻ってきたら、ユリウスの妃候補を集めたお茶会でも開いてみましょうか。きっと、面白いことになりますわよ?」
その、あまりに楽しげな提案に、皇帝は呆れたように、しかしどこか面白そうに、深いため息をついたのだった。
わお。皇帝一家の動きを追っかけたら、思わぬ展開(笑)
プロット修正、大丈夫かっ?!い、行けそう!(汗)
こ、これは、入れる予定の無かった裏の動きも入れた方が良いのかっ?!
『見聞を広めるため、諸国を旅したい』
ユリウスくん、このまま帝都だけに居たら駄目だ!と、動いて居ました。まさかここに絡んでくるとは...




