第231話:『王立図書館と、封じられた神話』
帝都の屋敷に満ちる静寂は、私の心を映す鏡のようだった。
窓の外で風が庭の木々を揺らす音だけが、時折、思考の澱をかき混ぜる。北へ向かう。その決意は固まった。だが、どこへ? 何を探しに?
グラン宰相が残した『神子』という言葉の残響が、答えのない問いとなって胸の内で木霊していた。
「……セラさん」
「はい、リナ様」
「明日は、帝国図書館へ参ります」
私の静かな宣言に、紅茶を淹れていたセラの白い指先が、ほんのわずかに動きを止めた。
◇◆◇
翌朝、馬車の車輪が硬い石畳を叩く規則正しい音が、帝都の目覚めを告げていた。
窓の外を流れる壮麗な街並みを横目に、私は『夜の蝶』の仮面越しに、向かいの席に座る男の姿をぼんやりと眺めていた。
ゲッコーさん。
少し窮屈そうな執事服に身を包んだ彼は、微動だにせず窓の外を見つめている。だがその瞳は景色を映さず、ガラスに反射する私と、私の両脇を固めるセラさん、ヴォルフラムさんの姿、そして馬車の周囲を行き交う人々の動きの全てを、同時に捉えているかのようだった。
すれ違う近衛兵たちが、私たちの馬車の紋章に気づき、弾かれたように敬礼する。その度に、私の心がわずかに重くなった。
(……そういえば、もう、少なくとも影の方達には隠しきれてなどいないのだろうな)
この完璧な護衛網。セラさんたちが私に付き従う姿。宮廷の影に生きる者たちにとって、『リナ書記官=天翼の軍師』という図式は、もはや公然の秘密なのだろうと思える。その事実に、言いようのない息苦しさを覚えた。
やがて馬車は、帝国の知の殿堂たる帝国図書館の前で、滑るように停止した。
大理石の柱が天を突く壮大な建造物。その扉を開けると、ひんやりとした空気と、古い羊皮紙が放つ独特の甘い香りが、私たちを迎えた。しんと静まり返ったホールに、私たちの足音だけが吸い込まれていく。
受付に立つ、眼鏡の奥の瞳が厳しい初老の司書は、私たちの姿を認めると、あからさまに眉をひそめた。
「……ここは軍人の方が来られる場所では……」
その咎めるような視線を、私は仮面の下で静かに受け止める。そして懐から、皇帝陛下から賜った『皇帝の証』のブローチを、そっとカウンターの上に置いた。
白銀のグリフォンが、鈍い光を放つ。
司書の目が、信じられないものを見るように大きく見開かれた。その表情が驚愕から畏怖へと変わるのに、時間はかからなかった。彼は慌てて椅子を蹴るように立ち上がると、カウンターから回り込み、深く、深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません! どうぞ、お入りください!」
その絶大な効力に、私は改めて皇帝の信頼の重さを実感すると同時に、胸の奥がきりりと痛んだ。
◇◆◇
案内されたのは、図書館の最も奥深く。陽の光さえ届かぬ、一般の立ち入りが禁じられた『特別書庫』だった。高い天井まで続く書架に、歴史の重みで黒ずんだ背表紙がびっしりと並んでいる。
「……北方にまつわる古文書は、この一画にございます」
司書が震える指で示した棚には、誰も読めぬ古代北方語で書かれた文献が、忘れ去られたように眠っていた。
セラたちは少し離れた場所で、静かに私を見守っている。
私は一冊、また一冊と、脆くなった羊皮紙の感触を確かめながら、そのページをめくっていく。私の目には、その意味不明なはずの文字の羅列が、まるで故郷の言葉のように、滑らかに流れ込んできた。
どれほどの時間が経っただろう。いくつかの文献に、グラン宰相が語った『神子』の記述を見つけた。それは断片的だが、確かに存在した事実として、歴史の隙間に息づいていた。
――『かの者、大地と心を通わせ、泉をつくりたもうたと云う』
――『2人目の神子は、稀代の癒やし手にして、また、偉大なる土の使い手なり』
そして、ついに。
一冊の、個人が記したと思われる古い日誌の中に、決定的な一文を見つけた。
『――かの神子は語られた。「力の源は、原始生命的な存在であると考えられる」「神のごとく存在に寄る物でなく、人の世の理と異なる価値観と力を有すると考えられる」「この力は、神子その者の存在自体を危うくする」と。故に、自らの代で秘術の継承を断つ、と。我ら民は、その気高き決断を、ただ受け入れるしかなかった。……かの神子様はまだそこまでお年を召しては居られないが、山中で穏やかな生活を送られるようになった。……星歴六百二十二年』
星歴六百二十二年。
帝国歴と比較して考えると百と少し年前のはず。歴史と呼ぶには、あまりに生々しい数字。
(まだ、何か手がかりが残っているかもしれない……!)
私は息を呑み、その日誌を強く握りしめた。
◇◆◇
書庫の片隅、ランプの光が作る小さな円の中で、私は『囁きの小箱』に息を潜めて語りかけた。
「グラン宰相。……見つけました」
図書館での発見を伝えると、通信機の向こうでグランさんが息を呑む気配がした。
『やはり、ただの神話ではなかったのですね……。三人目の神子が、自ら力の継承を……。ですが、なぜ?』
「分かりません。ですが、日誌にはこうも。『神子その者の存在自体を危うくする』、と」
その言葉に、グランさんが沈黙する。
「もし、その神子様に連なる何かを知ることが出来れば、私の力の制御にも繋がるかもしれません。あるいは、この力を、消し去ることも……」
『……リナさん。危険な考えかもしれませんが……』
『……知らずにいるよりは、遥かに良いでしょう。北へ向かう目的が、より明確になりましたね』
グランさんの静かな声が、私の決意を後押ししてくれた。
◇◆◇
その日の夕刻。
帝都の執務室は、書類の山と疲労の匂いに満ちていた。
宰相の計らいで設けられた会談の席。やつれた顔で現れたカイ・シュルツェさんは、私の顔を見るなり深いため息をついた。
「……軍師殿。これ以上、私に何をしろと……」
「お休みください、カイさん」
私はきっぱりと言い放った。「宰相閣下には、新たな人員追加と、七日に一日以上の完全休暇を具申しておきました。もしこれを破るなら、責任者を別の方に交代させると」
「なっ……!?」
半ば強制的に約束させると、私は『囁きの小箱』で北の研究所にいるマキナさんを呼び出した。
「カイさん、マキナさん。経済特区の学院の件でお話したいことがあります」
熱に浮かされるように、私は未来の構想を語った。
孤児院の子供たちが夢を見られる場所。帝国と王国の若者が、身分に関係なく共に学べる場所。あらゆる才能ある者が、自由に研究に没頭できる場所。理工学、商業学。未来を創るための、実学の殿堂。
一通り語り終えた後、私は二人に深く頭を下げた。
「――この学院の運営を、将来的に、お二方にお任せすることはできませんでしょうか」
唐突な申し出に、二人は言葉を失う。
「マキナさん。あなたには技術部門のトップとして、この世界の未来を担う技術者たちを育てていただきたいのです」
「カイさん。あなたには学長として、経済と法、そして実務の面から、この学院を大陸一の教育機関へと導いていただきたいのです」
私の必死の願いに、最初に口を開いたのはマキナさんだった。
「……俺は教える柄じゃねえ」
彼女はぶっきらぼうにそう言った。だが、私は食い下がった。
「いいえ。あなた以外に、この世界の常識を打ち破る発想を教え、未来の技術者を育てられる人がいますか」
その言葉に、マキナさんはぐっと押し黙った。
次に、カイさんが疲れ切った顔の中に、初めて興味の光を灯した。
「……面白い、構想ですね。ですが、あまりに壮大すぎる。私一人に、その重責が担えるとは……」
「一人ではありません。マキナさんもいます。私も、帝国も、王国も、サポートをいただきます」
私の真剣な眼差しを受け、カイさんはしばらく考え込んだ後、ようやく口を開いた。
「……特区の計画が落ち着いたら、の話ですが……その時は、ぜひ、前向きに検討させてください」
◇◆◇
皇宮からの帰り道、夕暮れの光が馬車の窓から差し込み、私の銀色のウィッグをきらめかせた。
神子の話で重く沈んだ心と、未来の学院構想を語れた高揚感。二つの感情が胸の中でせめぎ合い、私は知らず知らずのうちに、窓の外を眺めながら小さくため息をついたり、口元を緩めたりしていたらしい。
「リナ様」
不意に、隣に座るセラさんが、くすりと笑いを含んだ声で言った。
「随分と、表情が豊かですわね」
「えっ!?」
私は弾かれたように彼女を見た。
「そんなに、顔に出ていましたか!?」
「ええ。まるで嵐のようでしたわよ」
からかうようなセラの言葉に、顔にカッと熱が集まるのが分かった。羞恥心で、私はもう彼女の顔をまともに見られない。
やがて馬車が、見慣れた壮麗な屋敷の門をくぐり抜ける。窓の外には、完璧な礼で私たちを待つ侍女たちの姿。
私の顔から、急速に表情が消えていく。
(……帰ってきて、しまった……。また、あの至れり尽くせりが……)
そんな私の心の変化を敏感に感じ取ったのだろう。セラさんが、そっと私の手に自分の手を重ねた。
「リナ様。……いっそ、全てを任せてしまってはいかがです? 帝都におられる間くらいは、とことん甘やかされてみるのも、悪くありませんよ」
「で、でも……」
「あなたは、あまりに多くのものを背負いすぎです。たまには羽を伸ばし、ただの『お嬢様』でいる時間も、きっと必要ですわ」
その優しい言葉に、心が少しだけ軽くなる。
(……そう、かも、しれない……)
その時は、そう思った。
屋敷に入り、クララさんの完璧なエスコートで食事を終え、花びらが浮かぶ湯船に浸かり、侍女たちの手で髪を乾かされ、ふかふかのベッドに横たわる。その全てが完璧で、心地よくて、そして、どうしようもなく息が詰まる。
(……むりだ……!)
天蓋を見上げながら、私は静かに結論を出した。
(……うん。私には無理……!)
一刻も早く、北へ向かおう。
私は、眠りにつく前に、改めて固く心に誓った。




