第23話:『鉄槌の砦と愚者の鎮魂歌』
夜明け。
東の空が乳白色に染まり始め、湿った土の匂いを運ぶ朝霧が、鷲ノ巣盆地を深く覆っていた。
その静寂を、腹の底から絞り出すような鬨の声が引き裂いた。
「全軍、突撃ィィィッ!」
総大将の座に収まったバルガス将軍が、馬上から高らかに号令を下す。血走ったその目に映るのは、揺るぎない勝利の確信だけだった。目の前の「鉄槌の砦」を落とせば全てが終わり、輝かしい未来が手に入る。疑う余地もなかった。
王国軍の先鋒は、驚くほど脆い抵抗を蹴散らし、怒涛の勢いで砦の城壁に取り付く。金属が擦れ合う音、地を叩く無数の足音。やがて、破城槌が城門に叩きつけられる鈍い衝撃音が盆地に響き渡り、兵士たちが雪崩を打って砦の中へと飲み込まれていった。
間もなく、砦の内部から火の手が上がる。焦げ臭い黒煙が、勝利の狼煙のように空へと立ち上った。
「陥ちた! 砦は陥ちたぞ!」
「我々の勝利だ! 王国万歳!」
盆地全体に、勝利を確信した王国兵たちの歓声がこだまする。バルガスをはじめとする将たちは、馬上で高笑いをし、互いの手柄を誇らしげに讃え合った。
彼らが勝利の美酒に酔いしれた、その刹那。
リナが指揮する、冷徹な鎮魂歌の演奏が始まった。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!
足元から突き上げるような、不吉な振動。石と石がきしみ、悲鳴を上げるような音。
陥落したはずの「鉄槌の砦」の城壁が、まるで巨大な顎に噛み砕かれるように、内側へと崩壊を始めた。
それは、リナが数週間も前から工兵隊に極秘裏に仕込ませていた、純粋な物理トラップ。
砦の構造を確認してもらい、城壁の最も荷重がかかる数カ所の基礎をあらかじめ削り取らせる。そしてその代わりに、「楔」の原理を応用した巨大な木製の支柱を設置させておいたのだ。
今、砦の内部に残った帝国兵が、その支柱を固定していたたった一本のロープを、斧で断ち切った。
パツン、という乾いた音が響く。
ただそれだけで、支えを失った城壁は自重に耐えきれず、連鎖的に崩壊。一瞬前まで歓声を上げていた王国軍の先鋒を、悲鳴ごと呑み込んでいった。
「な、何が起こった!?」
呆然とするバルガスたちの目に、信じられない光景が飛び込んでくる。
崩れ落ちた城壁の、その向こう側。舞い上がる土煙の中から、まるで舞台の幕が上がるように、無傷の帝国軍精鋭部隊が亡霊のごとく姿を現した。あらかじめ安全を確保された区画から現れた彼らは、静かに殺意を湛えた瞳で、瓦礫に足を取られ混乱する王国軍の背後を、容赦なく突き始める。
「罠だッ!」
誰かの絶叫が、現実を告げた。
それを証明するかのように、彼らが進軍してきた盆地の入り口が、いつの間にか巨大な「逆茂木」と「拒馬」によって完全に封鎖されていた。振り返った先にあったのは、進んできた道ではなく、死を告げる巨大な茨の壁だった。
退路はない。
「ひ、退け! 全軍退却だ!」
バルガスが裏返った声で叫ぶ。
だが、もう遅い。
盆地を囲む左右の丘陵地帯。息を潜めていた帝国軍の弓兵が、死神の列となってずらりと姿を現していた。
セラ副官が、高く掲げた手を、静かに振り下ろす。
それが、殺戮の合図だった。
ヒュオオオオオッ!
空が、黒く染まった。
数万本の矢が、風を切り裂く耳鳴りのような音を立てて、滝のように降り注ぐ。
矢の雨の中に、時折、カン、カン、と甲高い金属音が混じり始めた。
それは、帝国軍の工兵たちが投石機で打ち込む、無数の「撒菱」だった。鉄の鋭い棘を持つ小さな殺意の塊が、地面にびっしりと敷き詰められていく。
さらに弓兵たちは、油を詰めた小さな壺を矢の雨に混ぜ込み始めた。壺は地面に叩きつけられて割れ、中の油をあたり一面にぶちまける。
悲鳴。絶叫。断末魔。
逃げ惑う兵士の足裏を、灼熱の痛みを伴って撒菱が貫く。
馬は撒菱を踏んで狂ったように暴れ、騎兵を振り落とす。
油に足を取られ、無様に転倒した兵士の背中に、次々と矢が突き刺さる。
陣形は崩壊し、指揮系統は完全に麻痺した。そこにあるのは、もはや軍隊ではなく、ただの烏合の衆だった。
「俺の馬だ! どけ!」「邪魔だ、死ね!」
ついさっきまで手柄を讃え合った者たちが、今は生き残るため、互いの喉笛に刃を突き立てている。
帝国軍は、その無様な地獄絵図を、ただ冷徹に、そして効率的に殲滅していった。
◇◆◇
戦いが終わり、血と鉄の匂いだけが立ち込める死の谷に、静寂が戻った。
風が、泥に汚れた王国軍の旗を虚しく揺らす音だけが聞こえる。
帝国は、建国以来と言われる完璧な大勝利を収めた。
「軍師様、万歳!」「帝国、万歳!」
帰還した兵士たちは歓喜に沸き、私の乗る輿を担ぎ上げんばかりの勢いで英雄の名を叫んでいる。グレイグもセラも、歴史的勝利に興奮を隠せないでいた。
その喧騒を遠くに聞きながら、後方に残されていたライナー・ミルザは、帝国の陣地がある方角を静かに見つめていた。
彼の横顔に驚きや悔しさの色はなく、ただ、深い諦観が浮かんでいる。
「……見事だ、帝国の『謎の軍師』。完敗だ。君は軍略だけでなく、人の心の醜ささえも掌で転がし、武器として使いこなした……。君のような相手と同じ時代に生まれてしまったことが、私の最大の不運だったか……」
彼はそう呟くと、静かに踵を返し、敗残兵をまとめるために歩き出した。
一方、勝利の喧騒の中心にある、帝国軍本陣。
輿の中は、外の熱狂が嘘のように静まり返っていた。
私は、セラから渡された戦果報告の羊皮紙を、小さな手で強く握りしめる。夥しい数の敵兵を討ち取り、捕虜にした、と記されている。
勝った。
私の計略で、帝国は勝った。多くの味方の命を救い、孤児院のみんながいる国を守った。
頭では、わかっている。
なのに、どうしてだろう。胸の奥が、氷の塊で抉られるようにズキリと痛む。息も苦しくなる。
あの盆地で失われた、無数の命。その一つ一つに、故郷で帰りを待つ家族がいたのかもしれない。友がいたのかもしれない。私の罠は、彼らの全てを奪った。
(……これで、良かったの……?)
頬を、一筋の熱いものが伝った。
圧倒的な勝利の栄光と、その裏にある計略の非情さ。その重みが、八歳の少女の肩にずしりとのしかかる。