第225話:『皇帝陛下と、軍師の攻防』
アクア・ポリスを発って数日。
馬車の車窓から流れ込む風は、南の甘い潮の香りから、次第に乾いた土の匂いへと変わっていた。黄金色に波打つ麦畑、緩やかに続く丘陵地帯。帝国の心臓部へと近づくにつれ、車窓の景色は穏やかな豊かさを増していく。
◇◆◇
帝都到着を翌日に控えた夕刻。街道沿いの宿場町で、私たちは一日の疲れを癒していた。ランプの灯りが部屋を暖かく照らし、遠くで家路を急ぐ人々の声が聞こえる。
その穏やかな静寂を、唐突な電子音が引き裂いた。
テーブルの上の『囁きの小箱』が、ぶぶっ、と短く震えている。皇帝陛下からのものだ。
私が緊張と共にボタンを押すと、ノイズの向こうから、どこか上機嫌な陛下の声が響き渡った。
『――リナよ、よくぞ戻った。そなたの無事の帰還を祝う、盛大なパレードの準備を……』
パレード。
その単語が鼓膜を打った瞬間、私の思考は完全に停止した。脳裏に蘇るのは、あの熱狂と、自分のあずかり知らぬところで祭り上げられていく偶像への嫌悪感。
考えるより先に、指が動いていた。
――ブチッ。
「…………」
「…………」
「…………」
小箱が沈黙し、部屋に気まずい静寂が落ちる。
セラさんとヴォルフラムさんが、信じられないものを見る目で私を凝視していた。室内の空気が数度下がった気がする。
「……あ」
我に返った私の口から、間の抜けた声が漏れた。
「り、リナ様! 皇帝陛下に対して、何というご無礼を!」
セラさんが顔面蒼白で悲鳴に近い声を上げる。
「……つい、指が滑って……」
その、あまりに子供じみた言い訳が終わるか終わらないかのうちに、小箱が再び、今度は怒りを含んだように激しく震えだした。
今度は、私が取るより早くセラさんがひったくるように小箱を掴み、深々と頭を下げながら応答した。
『――リナよ。……切ったな? 今、確かに切ったであろう? まだ話は終わっておらんぞ』
呆れと苛立ちが入り混じった、地を這うような声。
「も、申し訳ございません、陛下! ただいま、通信の調子が大変悪く……!」
『……セラか。……代われ』
観念したように、セラさんが震える手で小箱を私に差し出す。
私は深呼吸を一つすると、腹を括った。
そして今度は、自分から通信を繋ぐ。
「――陛下」
先程までの狼狽は嘘のように消え去っていた。声は冷静で、銀の仮面をつけた『天翼の軍師』そのものだった。
「パレードを強行されるのであれば、私は帝都には立ち寄りません。このまま北の地へと直行いたします」
有無を言わせぬ、断固たる響き。それはもはや交渉ではなく、最後通牒だった。
通信機の向こうで、皇帝陛下が息を呑む気配がした。長い、長い沈黙が流れる。やがて、全てを諦めたような、深いため息が聞こえてきた。
『…………分かった』
その声は、ひどく気落ちしていた。
『……パレードは、なしだ。……だが、顔は見せに来い。皇妃も、心配しておるのだぞ』
(……民のガス抜きと、人気を盤石にするには最適なんだがな……。あの『黒曜の疾風』とかいう奴なら、大喜びで三日は踊り続けてくれように……)
皇帝の内心のぼやきが、聞こえてきそうだった。
「……御意に」
私は恭しく応じると、今度はこちらから丁寧に通信を切った。
そして、セラさんたちに見えないように、テーブルの下で小さく、しかし力強くガッツポーズを決めた。
そのあまりに子供じみた勝利の喜びに、セラさんはハラハラしながらも、安堵と呆れが入り混じった苦笑いを浮かべるしかなかった。
ヴォルフラムさんだけが「さすがはリナ様……皇帝陛下を相手に、一歩も引かれぬとは……!」と、あらぬ方向へ感銘を深めている。
私の平穏な日常を守るための戦いは、まだ始まったばかりだった。




