間話:鋼の淑女、その黎明④ 泥濘(ぬかるみ)に咲く花
羊皮紙に落としていた私の視線が、音もなく持ち上がる。
そこに立っていたのは、年の頃八つか九つほどの少女だった。
泥と鉄と死の匂いが染みついたこの司令部には、あまりにも場違いな存在。大きな瞳が、不安げに揺れている。そのか弱げな少女と私の視線が、静かに交錯した。
憐憫でも、驚きでもない。
胸に突き刺さったのは、冷たいガラスの破片のような苛立ちだった。
ここは私の「家」。貴族の令嬢という鳥籠を自ら壊し、血反吐を吐く思いで手に入れた場所だ。帝都の甘い空気しか知らぬであろう子供が、上等なワンピースの裾を汚さぬよう気にしながら立っている。
『神童』。
徴募官の言葉が耳の奥で不快に響く。ハヤトという理不尽なまでの『暴力』が盤上を闊歩するこの戦場で、子供一人の才能が何の役に立つ。かつて無力感に苛まれた自分と目の前の少女の姿が重なり、忘れたはずの苦い記憶が蘇った。
だが、私の醒めた予測は次の瞬間、木っ端微塵に砕かれた。
グレイグ司令官が戯れに投げ渡した暗号文。昨日、私が半日かけてようやく解読の糸口を探り当てた、極めて難解なそれ。
少女――リナは、それに一瞥をくれただけで、淀みなく解き明かしてみせたのだ。
紡ぎ出される敵の作戦内容は、私の分析と寸分違わない。
全身の血が、逆流する。
違う。これは、私が半日かけて導き出した結論などではない。私が見つけたのは、それが王国のある地方の隠語を使っているという、入り口に過ぎなかった。それを北方部族の古語の文法で再構築しているなど、思いもよらなかった。
この少女は、私が数日、あるいは数週間かけてたどり着くはずだった答えを、わずか数秒で導き出したのだ。
『剣聖』ハヤトの圧倒的な武力とは質の異なる理不尽。静かで、それでいて脳髄を直接揺さぶられるような、規格外の『知性』。
凍てついていた私の心に、驚愕と共に得体の知れない熱が走ったのを、確かに感じた。
だがその熱も、グレイグ司令官の言葉で冷水を浴びせられる。
「こいつを“それっぽく”しろ。命令だ」
彼の口から語られた『謎の軍師』計画は、私の常識を遥かに超えていた。
「なっ……! なぜ私が、このような子供の茶番の世話を……!」
感情が、声になった。
士官学校で血の滲む努力の末に身につけた諜報・謀略の技術。騎士道を汚すものと蔑まれながらも、国を守る刃だと信じてきた。変装術も潜入術も、全ては勝利のため。それを、子供一人を飾り立てる見世物に使えと?
戦場を、死んでいった仲間たちを、愚弄するにもほどがある。
「これは俺の『作戦』だ」
グレイグの低い声が、全ての反論を封じた。副官である私に、司令官の作戦を拒否する権限はない。
唇を噛み締め、私は命令を受諾した。
フード付きのローブを、リナの小さな肩にかける。声色を変える変声器を、細い首元に当てる。その度に、彼女の肌の温かさと小刻みな震えが、私の指先に伝わってきた。
ふと、フードの下の瞳と目が合う。そこには、これから始まる茶番への不安と、私に対する怯えが浮かんでいた。
(……この子も、望んでこんな役を演じるわけではない)
その当然の事実に思い至り、心の中で硬く尖っていた何かが、少しだけ丸くなる。
私にできるのは、この馬鹿げた作戦を、命令通り完璧に遂行することだけだ。
車椅子の座面に毛布を重ね、彼女の視線が大人たちと対等になるよう高さを調整する。小さな手を隠す黒革の手袋。それはまるで、か弱い雛鳥を守るための、ささやかな鎧のようだった。
準備を終え、私は無言で車椅子を押した。
この子供を、獰猛な獣たちが待つ腹の中へと、自らの手で押しやるために。
軍議が始まった。
リナが地図を指し、敵の本隊が潜む丘を断言した時、私は息を呑んだ。
私の分析では、伏兵の可能性は複数の候補地に分散していた。だが彼女は、何の迷いもなく一点だけを指し示したのだ。そこは最も可能性が高い場所ではあったが、断定できる確証はない。だというのに、少女の言葉には、まるで未来を見てきたかのような揺るぎない確信が宿っていた。
隊長の一人が、詰問の声を上げる。その剣幕に、リナの肩がびくりと震えたのを、車椅子を押す私の手が感じ取った。
――その瞬間、私は無意識に前に出ていた。
「助言者殿は、お疲れだ。質問はまとめて司令官閣下へ」
自分の口から出た声は、驚くほど冷静だった。
これは作戦を守るための、副官としての行動だ。そう頭では言い訳しながらも、心のどこかで、ただこの怯えた少女を守らねばならないという、強い衝動に駆られていた。
そして、グレイグは吠えた。この少女の「神託」に、東部戦線全ての命運を賭けると。
狂気の沙汰だ。だが、不思議と絶望はなかった。
ハヤトという絶対的な暴力の前に、私の知略は無力だった。盤上の駒は薙ぎ払われ、歯噛みすることしかできなかった。だが今、目の前に現れたのは、盤そのものを書き換えてしまうかもしれない、新たな駒。
軍議が終わり、喧騒が遠ざかる。
私はフードの下でぐったりと疲弊している少女を見下ろした。
この泥濘に咲いた、あまりにも場違いで、か弱く、そして計り知れない花。
それが我々を勝利に導くのか、さらなる地獄へといざなうのか。
軋む車輪の音だけが、答えを知らぬまま闇に響いていた。
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『【あとがき集】天翼の軍師様は作者に物申したいようです』
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もう少し先まで行きますね...と言いつつ、このままセラ物語を進んでしまうか!?
...いや、それはダメでしょ。駄目...でもないのか?
そんなの見たことないけど...書籍化準備の間はやっちゃいますか(笑)