間話:鋼の淑女、その黎明② 仮面の砕ける夜
その夜の舞踏会は、セラの運命を決定づけた。
弦楽器の甘い調べと偽りの笑い声が満ちる広間で、あの侯爵家の嫡男が、半ば強引に彼女の腕を掴んだ。抵抗する間もなくテラスへと連れ出される。月明かりだけが照らす薄闇の中、彼の瞳はもはや隠しようもない獣の欲望にぎらついていた。
「美しいセラ。もう我慢ならない。今宵、君は私のものだ」
「おやめください。あなたのような方と……」
セラの冷たい拒絶が、男の理性の最後の箍を外した。
彼はセラの腕を掴むと、力ずくで壁際へと追い詰める。ビリッ、と絹のドレスが裂ける乾いた音が響き、夜風が彼女の白い肩を撫でた。
だが、セラはただのか弱い令嬢ではなかった。
咄嗟に、師範に叩き込まれた体捌きがしなやかな体を動かす。男の腕を捻り上げ、その膝裏を痛打した。しかし、体格差はいかんともしがたい。体勢を崩した男は逆上し、その大きな手がセラの喉元へと伸びる。
絶体絶命の、その瞬間。
「――そこまでだ、下衆が」
氷のように冷たい声と共に、数人の影がテラスになだれ込んできた。セラの兄とその友人たちだった。彼らは見るに堪えない光景に顔を怒りに歪ませ、侯爵家の嫡男を容赦なく取り押さえた。
騒ぎは、夜会に水を差すには十分すぎた。
青ざめた顔で駆けつけたオーレリア伯爵が見たのは、ドレスを乱し、唇から血を流しながらも、毅然と立つ娘の姿。その瞳に涙はなく、ただ全てを拒絶する昏い炎が燃えていた。
その日から、セラは自室に閉じこもった。誰とも口を利かず、運ばれてくる食事は冷めていくだけ。ただ、窓の外の空を眺め続けた。
娘の心が壊れてしまうことを恐れた両親は、ついに折れた。
「……セラ。許してくれ。お前をここまで追い詰めていたのは、この私だ。お前の顔から笑顔が消えていたことに気づきながら、私は……」
「もういいんだ。もう我慢しなくていい。お前の人生だ。お前の進みたい道を、自由に選びなさい。私はただ……お前が笑っている姿を見たい。それだけなんだ」
父親の絞り出すような声に、セラは初めて顔を上げた。その瞳に、再び光が宿っていた。
彼女はすぐさま帝国軍の士官採用試験の願書を取り寄せた。
筆記試験では歴戦の試験官たちが舌を巻くほどの戦術論を展開し、実技試験では男たちに混じって泥にまみれながらも、決して音を上げなかった。
結果は次席合格。首席は平民上がりの叩き上げだったが、貴族令嬢としては前代未聞の快挙だった。同期の貴族からは嫉妬と侮蔑の視線が突き刺さる。だが、彼女には味方もいた。一期、二期上の、実力でのし上がってきた先輩士官たちだ。彼らはセラの才能を正当に評価し、陰湿な嫌がらせからそれとなく彼女を守ってくれた。
士官学校時代、彼女はさらに異彩を放つ。
必須科目を圧倒的な成績で修める傍ら、選択科目として近衛情報局が管轄する『諜報・謀略課程』を履修したのだ。変装術、潜入術、そして人の心を読み解く心理戦。多くの者が「騎士道に反する」と敬遠するその課程で、セラは水を得た魚のように才能を開花させた。農婦にも踊り子にも完璧になりきる技術は、教官たちを驚嘆させたという。
だが、娘を案じる父親の心は変わらない。彼は権力を使って娘の配属先に手を回した。最前線ではなく、後方の安全な部署へ。彼が選んだのは、柔軟な思考を持ち公明正大であると噂される人物で、今は後方で書類仕事に明け暮れている、グレイグという男の副官の座だった。
娘の夢を叶えつつ、その身の安全も守れる。伯爵は、それが最善だと信じていた。