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第21話:『甘い毒と将軍たちの困惑』


王国軍が国境線に大軍を集結させた、という報は、東部戦線の帝国軍司令部に重苦しい緊張をもたらした。

執務天幕に集められたのは、グレイグ司令官をはじめとする、各部隊を率いる歴戦の将校たち。誰もが、地図上にびっしりと並んだ敵軍の赤い駒を、厳しい表情で見つめている。


「……見た通りだ。敵は、前回を上回る規模で、我々に決戦を挑む気のようだ」

グレイグが、重々しく口火を切った。

「各々、意見を聞かせてもらおう」

将校たちからは、「籠城して、敵の疲弊を待つべきだ」「敵の戦力が整う前に、先制攻撃を仕掛けるべきだ」といった、真っ当だが決め手に欠ける意見が飛び交う。

その喧騒の中、天幕の隅に置かれた、あの豪華な輿から、静かだが、凛とした声が響いた。


「……皆様。一つ、ご確認いたします」

変声器を通した、低く、落ち着いた『謎の軍師』の声に、将校たちはぴたりと口をつぐみ、一斉に輿へと視線を向けた。

「今回の敵の指揮官は、一体誰だとお考えで?」

その問いに、屈強な騎士団長が答えた。

「無論、あの『剣聖』であろう。これだけの大軍を動かせるのは、奴くらいのものだ」

「いえ、違います」

軍師は、きっぱりと否定した。

「今回の敵は、もっと陰湿で、もっと厄介な相手です。……ですが、それ故に、我々がつけ入る隙も、また大きい」


そして、軍師は、これから帝国軍が取るべき作戦について、語り始めた。

「――我々は、負け続けます」

「……は?」

将校の一人が、間の抜けた声を上げた。天幕にいる全員が、自分の耳を疑った。

「軍師殿、今、何と?」

「ですから、申し上げました。我々は、これから始まる小競り合いの全てにおいて、王国軍に“勝利”を献上し続けるのです。ただし、それは常に『惜敗』でなければなりません」


軍師の言葉に、天幕は再び騒然となった。

「馬鹿な! なぜ我々が、わざと負けねばならんのだ!」

「兵の士気に関わる! そんな事をしては、利敵行為になるではないか!」

激しい反発の声が上がる中、グレイグだけは腕を組み、面白そうに黙って成り行きを見守っている。


「静粛に!」

セラ副官の鋭い声が、将校たちの怒声を制した。

軍師は、静かに続けた。

「皆様は、敵の内部事情をご存じない。今の王国軍は、一枚岩ではございません。そこには、『剣聖』という英雄に手柄を奪われ、面白く思っていない、功名心だけは高い、古参の将軍たちがおります」

軍師は、まるで見てきたかのように語る。

「我々が『惜敗』を繰り返せば、彼らはどう思うでしょう? 『帝国軍など、この程度か』『自分が出れば、もっと楽に勝てる』と、必ずや増長します」


「我々が与えるのは、勝利という名の、甘い毒の餌。その餌に、敵の愚かな将軍たちが食いつき、実質的な指揮官である有能な軍人から、指揮権を奪い取る。……そうなれば、敵は自ら、我々が用意した罠の中へと進んでくれるでしょう」


その、あまりに狡猾で、敵の心の醜さまでを利用する作戦内容に、歴戦の将校たちは言葉を失った。戦場で、正々堂々と戦うことだけを考えてきた彼らにとって、それは理解の範疇を超えた、悪魔的な計略だった。

「……しかし、軍師殿。わざと負けるなど、兵たちが納得しますまい。下手をすれば、命令不服で軍が崩壊しかねん」

比較的冷静な、老将軍が懸念を口にした。


「ご心配には及びません」

軍師は、自信に満ちた声で答えた。

「この作戦の成否は、いかに“見事に負けるか”にかかっております。撤退のタイミング、残していく物資の量、そして何より、こちらの損害。その全ては、私が計算し、各部隊に寸分違わぬ指示を出します。兵たちには、『これは、敵を油断させ、より大きな罠に誘い込むための、壮大な偽装工作である』と説明すればよいのです」

「……それに」

と、軍師は付け加えた。

「この作戦の全ての責任は、私一人が負います。もし、失敗した暁には、皆様は『全ては、素性も知れぬ軍師の戯言であった』と、私の首を陛下に差し出せばよろしい」


その、あまりに潔い言葉に、あれほど反発していた将校たちも、ぐっと押し黙ってしまった。

彼らは、目の前の輿の中にいる、顔も知らぬ人物に、言い知れぬ畏怖を抱き始めていた。

その知謀は、戦場だけでなく、人の心さえも、盤上の駒のように動かしていく。


やがて、グレイグが沈黙を破り、立ち上がった。

「……話は以上だ。作戦は、軍師殿の立案通りとする。異論は認めん!」

その一言で、全ては決定した。

「各隊長は、軍師殿の補佐役であるセラ副官より、詳細な指示を受け取れ。……いいな、これは、この戦争の趨勢を決める、最も重要な戦いだ。一分の隙も見せるなよ!」


こうして、帝国軍の将校たちは、困惑と、一抹の不安と、そして未知の計略への奇妙な高揚感を胸に、それぞれの持ち場へと戻っていった。

天幕に二人きりになった後、グレイグは私の輿に近づき、そっと囁いた。

「……リナ。お前、本当に性格が悪いな」

そして、続けた。

「だが、最高だ。奴らが、お前の掌の上で踊り狂うのが、今から楽しみでならん」


赤い帳の奥で、私は静かに微笑んだ。

『甘い毒の餌』作戦の、最初の、そして最も重要な関門は、突破された。

あとは、王国軍という名の獲物が、この甘い毒に、いかに見事に食いついてくれるか、だ。


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― 新着の感想 ―
多言語理解ではなくて相手の行動が理解できる的なチートの方がハマりそうなのが残念
2025/09/09 21:26 たんくろう
自分の采配で死者が出ることを飲み込んだのが活きてるのかな 勝っても負けても犠牲は出るから
猪にはハマる策だよね、さぁ狼を押しのけて臭せぇ鼻面を出しな! てなもんだw
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