第214話:『盤上の影、女王の微笑』
『大陸防衛軍』構想の承認を受け、会議室の熱気は最高潮に達していた。地図を囲んだ武官たちが、新たな部隊編成について声を上ずらせながら議論を交わしている。その喧騒を、私は静かに、しかし冷徹な一言で断ち切った。
「――皆様。お忘れなきよう」
私の声が響くと、ざわめきが嘘のように静寂へと変わる。銀の仮面に、居並ぶ重臣たちの視線が突き刺さった。
「我らが築くは、あくまで『盾』。ですが盾だけでは、見えざる刃から身は守れますまい」
円卓に指先で細い線を描く。
「アルビオンの手は軍事力のみにあらず。彼らはヴェネツィアの商人を操り、或いは商人に成りすまし、王国内に内乱の火種を撒きました。シャングリラ聖王国の内情にも干渉している気配があります。彼らの真の恐ろしさは戦場ではなく、盤の裏で駒を動かす、その見えざる手にあるのです」
一度言葉を切り、私は居並ぶ一同を見渡し、宣言した。
「国境を越えた巨大な諜報組織の設立を、ここに提言いたします。その目的は二つ。一つは、ヴェネツィア、シャングリラ、そして我らの足元に潜む全ての影を断つこと。そしてもう一つ、より重要な目的は――我らの宿敵、アルビオンの全てを暴き出すこと。敵を知り、己を知る。それなくして真の勝利はあり得ません」
あまりに踏み込んだ提案に、空気が凍る。その沈黙を破ったのは、グラン宰相だった。肘掛けを軋ませ、鋭い声で問い質す。
「……軍師殿。それは他国への内政干渉をも辞さぬと?」
「ええ。必要とあらば」
私はきっぱりと応じた。
「病巣を断つには、時に汚れる覚悟が要りましょう」
非情なまでの現実主義に、アルフォンス新王がわずかに喉を鳴らした。その重苦しい空気の中、私はさらに踏み込む。
「この組織を円滑に機能させるには、全体の指揮を執る『総監』、そして両国の情報を繋ぐそれぞれの『連絡官』という役職が不可欠です。その最適な人選について、両陛下と宰相閣下にご判断を委ねたく存じます」
私の言葉を受け、最初に動いたのは皇帝ゼノンだった。彼は隣に座す宰相アルバートに視線を送る。
「アルバート。そなたの意見は?」
「はっ。……帝国側の『総監』としては、長年帝国の影を統括してきた、近衛情報局長官であるファビアン侯爵が適任かと。そして『連絡官』には、海軍の情報戦略に長け、政治的な駆け引きにも強いエンリコ・ダンドロ少将を推薦いたします」
その人選に、ロッシ中将が満足げに頷いた。
続いて、アルフォンス新王がグラン宰相へと視線を移す。
「グラン、王国側はどうだ?」
「はい、陛下。我が国の『連絡官』には、フィリップ・ヴァロワ准将を推薦いたします」
その名に、円卓に置かれた『囁きの小箱』の向こうで、ライナーが息を呑む気配がした。
グランは続ける。
「ヴァロワ准将は、かつてライナー衛士長と共に旧体制下で不遇をかこっていた、極めて有能な情報分析官です。彼の冷静な判断力と祖国への忠誠心は、必ずや両国の架け橋となりましょう」
帝国、王国、それぞれから最適と思われる人物の名が挙がっていく。だが、その完璧な人事案の流れを、聖女マリアの優雅な一言が、静かにかき乱した。
「まあ、皆様、さすがは国を担う方々ですこと。実務的な人選は完璧ですわね」
カチャリ、とカップを置く澄んだ音が響く。
「ですが、この組織、それだけでは上手く回りませんわよ?」
彼女は扇を広げ、その影から愉しげに一同を見渡した。
「影の組織には、時に光の威光も必要です。……陛下、アルフォンス陛下。この組織の『名誉総裁』として、わたくし聖女マリアの名をお使いいただいてもよろしくて? わたくしの名があれば、聖王国との交渉も、少しは円滑に進むやもしれませんわ」
それは、実権ではなく「権威」を求める、あまりにしたたかな一手だった。彼女はこの組織の象徴となることで、その活動に自らの影響力を及ぼそうとしているのだ。
皇帝とアルフォンス新王は顔を見合わせ、やがて頷いた。
「……よかろう。聖女殿の申し出、感謝する」
円卓の上で、私とマリアの視線が一瞬だけ交錯する。
こうして、かつて『影の部隊』や『蜘蛛の巣』と呼ばれた者たちは、大陸全土を覆う巨大な諜報組織として再編される事になった。
コードネーム、『アルゴス』
軍事という光の舞台の裏側で、しかし何よりも苛烈な戦争の準備が、静かに、そして着々と整えられていく。
私は仮面の下で、新たな盤上で駒が動き出すのを、ただ静かに見つめていた。
リナは人選については提議しなかったので、訂正します。
ファビアン侯爵...長年帝国の影を統括してきた、近衛情報局長官
フィリップ・ヴァロワ准将...旧体制下で不遇をかこっていた、極めて有能な情報分析官
ふふふっ♪(表舞台に出てきた事のない方々ですねー)