第20話:『張り子の虎と狼の影』
帝都の甘い空気と、英雄伝説の熱狂は、東部戦線へと向かう道のりの中で、徐々に静まっていった。
豪華な輿に揺られながら、私はあの平和な一日を思い出し、そして、これから始まるであろう戦いに心を切り替えていく。
(……セラさんと食べた焼きリンゴ、美味しかったな。今度は、みんなにも食べさせてあげないと)
そんなささやかな決意が、今の私を支える、大切な力の源だった。
数週間ぶりに帰還した東部戦線の駐屯地は、以前とは比べ物にならないほど活気に満ち、そして、物々しい空気に包まれていた。帝都からの潤沢な補給により、兵士たちの装備は一新され、士気も高い。そして、国境の向こう側で、王国軍が大規模な軍事行動を開始したという情報は、兵士たちの間に心地よい緊張感をもたらしていた。
「――おかえりなさいませ、閣下、軍師殿」
前線で留守を預かっていた副官が、私たちを出迎える。彼の顔には、疲労の色と共に、再会を喜ぶ安堵の色が浮かんでいた。
「早速で悪いが、状況を報告しろ」
グレイグが、輿から降りながら命じる。
報告は、衝撃的なものだった。
敵の集結速度は、帝都で報告を受けた時よりもさらに加速しており、もうすでに国境線に、前回を上回る規模の大軍が布陣を完了しているという。
執務天幕に張り出された巨大な軍事地図には、敵軍の配置を示す赤い駒が、まるで帝国の喉元に突きつけられた刃のように、びっしりと並んでいた。
「……これは……。どうやら、推測はあたりのようですね」
私は、輿の中から、地図を睨みつけながら呟いた。
「これは、完璧すぎる布陣です。言うならば、士官学校で習う、模範解答を見ているよう……」
敵の陣形は、一見すると隙がない。兵站は確保され、各部隊は連携が取りやすいように配置されている。だが、それ故に、型にはまりすぎていて、意外性には欠けていた。
(これは、『剣聖』のようなひらめきや、個の力で戦局を覆すタイプの人間が行った布陣じゃない。もっと、几帳面で、論理的で、そして……石橋を叩いて渡るような、慎重な人間の手によるものだ)
「閣下。敵の捕虜や、投降してきた兵士から、何か情報を得ていますか? 特に、今回の作戦を指揮している人物について」
私の問いに、報告に来た副官が答えた。
「はっ。それが、奇妙なことに……捕虜たちの誰もが、指揮官の名を口にしないのです。ただ、『作戦は全て、参謀本部から派遣された“あの方”の指示によるものだ』と……」
「“あの方”……か」
グレイグが、腕を組んで唸る。
私は、さらに深く思考を巡らせた。
帝都で立てた仮説――王国軍上層部が、自分たちの手柄のために、有能だが使い捨てにできる『駒』を立てた――という仮説。
この状況は、それを裏付けているように思えた。
その『駒』は、おそらく自分の名前が表に出ることを望んでいない。いや、上層部から、固く口止めされているのだろう。勝利すれば手柄は上層部のもの。敗北すれば、正体不明のまま、全ての責任を負わされる。
(……なんて、哀れな人)
まだ見ぬ敵の指揮官に、私は一瞬、同情にも似た感情を抱いた。だが、今は感傷に浸っている場合ではない。
「グレイグ閣下」
私は、天幕の中にいた数人の将校たちに聞こえるように、変声器を通して、わざと冷たく、そして断定的な口調で言った。
「敵は、張り子の虎にございます」
「……何?」
将校の一人が、訝しげな声を上げる。
「あれだけの数を見て、張り子の虎だとおっしゃるのか、軍師殿」
「ええ。確かに、数は多い。ですが、その内実は、練度も装備も不揃いな、ただの寄せ集め。質より量で我々を威圧し、こちらのミスを誘うのが狙いでしょう」
私は、赤い帳の奥で、静かに続けた。
「ですが、油断は禁物です。その張り子の虎を操っているのは、おそらく、手足こそ縛られてはおりますが極めて有能な、本物の狼……。私たちの本当の敵は、兵士の数ではなくその狼ただ一人の頭脳です」
私の言葉に、天幕の中は静まり返った。
グレイグは、私の言葉を聞き終えると、満足そうに頷いた。
「……厄介な男が出てきたのかもしれない。俺がまだ若かった頃、王国軍に、平民出身でありながら、士官学校を首席で卒業した天才がいる、という噂を聞いたことがある。そしてその後、才能を貴族共に妬まれ、ずっと冷や飯を食わされている、と……」
彼は、地図上の一点を、指でトン、と叩いた。
「もし、敵の指揮官がその男……ライナー・ミルザだとしたら、これは、一筋縄ではいかないだろう」
ライナー・ミルザ。
その名を、私は初めて聞いた。
だが、その瞬間、私の胸の奥で、チリ、と小さな火花が散ったような気がした。
異世界の天才と、転生者の偽りの軍師。
まだ見ぬ好敵手との、息詰まる頭脳戦の幕が、今、静かに上がろうとしていた。