第212話:『円卓の始まり、そして平和の調印』
司令部の長く、静まり返った廊下。
磨き上げられた石の床に、私の厚底ブーツが立てる硬質な音だけが、大きく、規則正しく響き渡る。両脇にはロッシ中将直属の海兵たちが石像と化して並び、兜の隙間から覗く無数の視線が、好奇と畏敬をない交ぜにして銀の仮面に突き刺さっていた。
(高い。やっぱりこの靴は高すぎる……! もし転んだら、絶対に笑われる……!)
内心の悲鳴を押し殺し、背筋を伸ばして悠然と歩を進める。いつバランスを崩すとも知れない恐怖に背筋が凍るが、ここで立ち止まることは許されない。
やがて重厚な樫の扉が開かれ、軍議室へとたどり着いた。
そこは円卓が置かれた広壮な一室。高い窓から射し込む陽光が、歴史の重みを宿した空気中の塵をきらきらと照らし出している。
すでに何人かの顔ぶれが揃っていた。
右手には、扇の影で聖女マリアが優雅に微笑んでいる。
左手には、歴戦の武人グレイグ中将とロッシ中将が、腕を組み微動だにしない。その背後に控える将官たちからは、より剥き出しの感情が伝わってきた。噂に聞く仮面の軍師の登場に、思わず息を呑む者。伝統を覆す得体の知れない存在に、眉根を寄せて苦々しげな視線を向ける者。あるいは、その奇跡的な戦術への憧憬か、わずかに目を輝かせる若手の将官もいる。壁際にはエンリコ少将が、気配を消して控えていた。
そして円卓の一番奥、玉座のように設えられた二つの席と、マリアの隣席はまだ主を待っている。
だが私の目を引いたのは、その配置ではなかった。
皇帝たちが座るであろう席の真正面。まるで円卓の輪から弾き出された被告席のように、ぽつんと一つだけ椅子が置かれているのだ。
(……え? 私、あそこに……?)
ギギ、と錆びついたブリキ人形のように首を巡らせ、背後のセラとヴォルフラムを見上げる。
セラは「諦めてください」とでも言うように静かに目を伏せた。
ヴォルフラムは期待に満ちた輝く瞳で、力強く頷き返してくる。
……味方は、いない。
観念して、その孤独な椅子へと歩みを進める。
静かに腰を下ろし前を向くと、マリア、グレイグ、ロッシ、三者三様の視線が真正面からぶつかった。私は改めて仮面の下で、強く奥歯を噛み締めた。
その時、扉が再び開かれる。アルフォンス新王がグラン宰相を伴い、若き王の威厳を纏って凛と入室した。
室内の全員が一斉に起立し、深く頭を下げる。
アルフォンスが皇帝の隣席に着くまで、敬意に満ちた沈黙が続いた。
続けて、皇帝陛下が姿を現す。
その圧倒的な存在感に、部屋の空気が密度を増したかのようだった。アルフォンスさえも再び立ち上がり、丁重な礼をもって迎える。
皇帝が玉座に着くと、エンリコ少将がすっと進み出て、皇帝と国王の間に立った。
皇帝が一つ頷く。エンリコの澄んだ声が、会議の始まりを告げた。
「――ご着席、願います」
衣擦れの音だけが響く。
エンリコが本日の趣旨――帝国と王国の恒久的な平和、及び共通の脅威たるアルビオンへの対処――を簡潔に述べ、開催を宣言した。
最初の議題は、両国の正式な平和条約締結。
宰相アルバートとグランが、事前に練り上げた草案を厳かに読み上げていく。国境線の確定、不可侵の誓い。その一言一句が、血塗られた歴史の頁を静かに閉じていくかのようだった。
やがて全ての条文が読み上げられ、両王の前に二通の羊皮紙が差し出される。
皇帝ゼノンと、新王アルフォンス。
二人の王は互いの目をまっすぐに見つめ合うと、静かに、しかし力強く頷き合った。
そしてそれぞれがペンを執り、羊皮紙にペン先が擦れる音を響かせ、自らの名をそこに刻み込む。
歴史が、動いた。
その場にいた誰もが固唾をのんで、その瞬間を見守っていた。
調印が終わると、エンリコが静かに、しかし部屋の隅々にまで響き渡る重々しい声で宣言した。
「――これにて、ガレリア帝国とアルカディア王国の間に、恒久的な平和条約は正式に締結された」
拍手はない。ただ、歴史の重みを受け止める厳粛な沈黙だけが部屋を支配する。
皇帝陛下は、その沈黙を手で制するようにゆっくりと口を開いた。
「――だが、これで終わりではない。むしろ、ここからが始まりだ」
その言葉に、室内の空気が再び引き締まる。
皇帝の視線が、次の議題を促すように私へと注がれた。
私はゆっくりと立ち上がる。スカートの裾が立てる微かな音が、やけに大きく聞こえた。
そして、この大陸の未来を動かすための最初の言葉を紡ぐ。
「――『帝国・王国平和維持機構 最高顧問』の名において。……発言の許可を、お願い申し上げます」
静寂の中、私の声だけが、凛と響き渡った。
皇帝とアルフォンス新王の目が、一瞬だけ見開かれる。次の瞬間には、面白いものを見た子供のような愉悦の色を宿したのを、私は仮面の奥から見逃さなかった。