第211話:『銀の仮面、夜明けの軍議』
アクア・ポリスの夜明けは、潮の香りと、海兵たちの力強い練兵の声で満ちていた。
遠くから響く鬨の声が司令部の石壁に反響する。だが、私が身支度を整えるこの奥まった一室は、その活気から切り離されたように、ひたと静まり返っていた。
鏡の前に立つ私に、昨日までの少女の面影はない。
セラさんの白い指が、体に吸い付くような濃紺のドレスの襟元を整える。衣擦れの微かな音だけが、張り詰めた空気に響いた。滑らかな銀糸のウィッグが被せられ、元の亜麻色の髪が視界から消える。最後に差し出されたのは、蝶を模した優雅な銀の仮面。ひやりとした金属の感触が頬に走り、私の素顔と感情は完全に外界から遮断された。
鏡に映るのは、年齢不詳の神秘。人間味の薄い『天翼の軍師』という偶像。
ふと、仮面の縁をなぞりながら、素朴な疑問が唇からこぼれた。
「……セラさん。私がこうして突然アクア・ポリスに現れたことを、皆は不審に思わないのでしょうか。昨日まで帝都にいたはずなのに……」
私の問いに、セラさんは衣装の最後の皺を伸ばしながら、こともなげに微笑んだ。その完璧な笑みは、まるで全てを計算し尽くした舞台演出家のそれだ。
「ご心配には及びません、リナ様」
彼女は誇らしげに胸を張り、その声は密やかな熱を帯びる。
「『天翼の軍師は神出鬼没。空間を跳躍し、瞬きの間に千里を駆ける』――今や大陸中の吟遊詩人がそう歌い、どの演舞場でも大好評の演目ですわ。ですから、誰も不思議には思いません」
「…………」
言葉を失った。自分のあずかり知らぬところで、とんでもない伝説が創り上げられている。まるで御伽噺の登場人物ではないか。自分がこの大陸でいかに人ならざる存在として認識されているかを知り、足元の床がぐらりと揺らぐような眩暈を覚えた。
だが、その非現実性に眩暈を覚えている暇はない。
パン、と両手で仮面の上から頬を打つ。乾いた音が響き、かすかな衝撃が覚悟を促した。鏡の中の銀の騎士姫が、同じ仕草で私を見つめ返している。
今日の軍議に集うのは、皇帝陛下やグレイグ中将、マリア様といった知己がほとんど。だからこそ、甘えは許されない。この仮面は、そのための戒めだ。
(……しっかりしろ、私。ここからは『リナ』ではない。『天翼の軍師』の仕事だ)
これから始まるのは、単なる報告会ではない。
大陸の未来を賭け、国家間の利害がぶつかり合う血の流れない戦場。承認を得るべき案件の一つ一つが、重い枷のように心にのしかかる。
帝国と王国の、真の平和条約。
両国が手を取り合う、新たな『大陸防衛軍』の設立。
その光の裏で動く、巨大な『諜報組織』の創設。
マキナの技術を大陸全土に広げる『運輸革命』と、その先の『航空技術開発』。
――その全てを内包する、壮大な『大陸改造計画』。
一つ思い浮かべるごとに、呼吸が浅くなる。どれもが巨大な帝国の歯車を動かす、重要な鍵だ。
私はもう一度、鏡の中の自分と向き合った。
仮面の奥の瞳に、冷たい決意の炎が灯る。
「――参りましょう、セラさん」
「はい、リナ様」
重い扉を開けると、廊下に差し込む朝の光が目に染みた。
私たちはその光の中へ、静かに一歩を踏み出した。