第209話:『甘い休日と鋼の将軍』
長旅の疲れを溶かすように、賑やかなビュッフェ形式の夕食は続いていた。カトラリーの軽やかな音、皆の楽しげな話し声。食後のデザートを囲んで和やかな空気が満ちる中、皇帝陛下が満足げに一つ、手を叩いた。
「――皆の者、長旅ご苦労であった。明日は軍議の前に、一日、完全な休息を取るが良い!」
その鶴の一声に、アルフォンス新王とグラン宰相が張り詰めていた糸が切れたように、深く安堵の息を吐き出すのが分かった。
「まあ! ありがとうございます、陛下!」
私の声も、思わず弾む。
すると、待ってましたとばかりに隣に控えていたヴォルフラムが、ぱっと顔を輝かせた。
「リナ様! では明日は、このヴォルフラムがアクア・ポリスの街をご案内いたします! この街は、私の……その、馴染みのある場所ですので!」
その瞳は「お任せください!」と、自信に満ちてきらめいている。
だが、そのやる気に満ちた申し出に、冷や水を浴びせたのはロッシ中将だった。巨大なジョッキを呷り、口ひげに泡をつけたまま豪快に笑い飛ばす。
「がっはっは! ヴォルフラムよ、お前が知っているのは裏路地の抜け道か鍛錬場の場所くらいであろうが。この街の美味い菓子屋など、一つも知らんくせに」
「ぐっ……!」
図星を突かれたヴォルフラムは、先程までの輝きが嘘のように、みるみるうちに萎んでしまう。その肩はしょげ返り、まるで頭からきのこでも生えてきそうだ。
「あ、あの! ヴォルフラムさん!」
私は慌てて彼女の腕に触れる。
「わ、私は、ヴォルフラムさんがそばにいてくださるだけで安心です! ですから、もっともっと強くなって、私を全てのことから守ってくださいね!」
「――! はっ! お任せください、リナ様!」
私の言葉に、彼女は一瞬で蘇った。その瞳の奥で、再び決意の炎がごう、と音を立てて燃え上がるのが見えた。
やれやれ、とでも言うようにセラさんが優雅に微笑む。
「では、明日のご案内はわたくしが手配いたしますわね。この街で一番と評判のパティスリーがあるそうですから」
「わあ! 楽しみです!」
その甘やかな計画に、ぬっと巨大な影が差した。
グレイグ中将だった。彼は空になった皿を音もなくテーブルに置き、何でもないことのように言い放つ。
「……ほう、菓子屋か。……うむ。護衛は多いに越したことはない。俺も同行しよう」
場の空気が、一瞬にして凍りついた。
セラさんの完璧な微笑みの端が、ぴくりと引きつる。
「……グレイグ中将閣下。護衛でしたら、ゲッコーもおりますし、ロッシ中将の海兵たちもおりますが……」
「いや、俺が行く」
淡々とした、しかし有無を言わせぬ響き。
(……この人、ただ甘いものが食べたいだけだ……!)
その確信は、どうやらセラさんにも伝わったらしい。彼女は引きつった笑顔のまま、恭しく一礼した。
「……かしこまりました。では、明日、お待ちしております」
◇◆◇
翌朝。ひんやりと澄んだ空気が肌に心地よい。
私たちは朝食のため、再びあの高台の食堂へと向かっていた。遠くの訓練場から「オウッ!」「ソウッ!」という、熱気のこもった掛け声が風に乗って響いてくる。涼しいうちに体を鍛え上げるのが海兵たちの日課らしい。遠目にも、逞しい男たちの筋肉質なシルエットが、昇り始めた朝日に黒々と浮かび上がっていた。
食堂は、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、挽きたての豆で淹れたコーヒーの香りで満ちている。
軽くトーストされたパンに、ふわふわのスクランブルエッグ、そして温かいミルクを皿に取っていった。
その、私の手を、セラさんの手が優しく、しかし有無を言わせぬ力で制した。
「リナ様」
彼女は、完璧な微笑みを浮かべている。だが、その翠の瞳の奥は、全く笑っていない。
「そのようなものばかり召し上がっていては、お体に障りますわ。……お野菜も、きちんと摂りませんと」
彼女はそう言うと、私の皿に、色鮮やかな海藻のサラダと、瑞々しい葉物野菜のソテーを、こんもりと盛り付けた。
「……う……」
私は思わず口ごもる。
「さあ、リナ様。こちらも、残さず召し上がってくださいね?」
その、どこまでも優しい、しかし絶対的な命令に、私は「……はい」と小さく頷くことしかできなかった。
結局、私の朝食は、パンと卵とミルクに加えて、たっぷりの野菜と、デザートのフルーツヨーグルトという、非常に健康的なものになった。
少し離れたテーブルでは、マリア様とリリィが早くも何やら密談を交わしている。その周囲を帝国の『影』と王国の親衛隊が、互いに牽制し合うように、しかし完璧な連携で警護しているようだった。
ハヤトはマキナと向かい合い、「蒸気機関の応用」について熱く語り合っている。「つまり、もっとドカーンと速くなるってことか!?」というハヤトの叫びに、「だから、そうじゃねえって言ってんだろ!」とマキナが怒鳴り返す声が、穏やかな食堂に響き渡った。
この平和で、少しだけ騒がしい朝の光景。
温かいミルクの入ったカップを両手で包み込みながら、私はこの時間がずっと続けばいいと、心の底から願った。
今日の午後は、あの甘党将軍と一緒にお菓子屋さん巡り。
そのことを思うと、少しだけ胃がしくりと痛んだ。