第208話:『軍港の星空と温かな食卓』
潮の香りがまだ新しいアクア・ポリスでの、最初の夜。
私たちが夕食のために案内されたのは、司令部の無骨な一角ではなかった。
「こちらです、リナ様」
セラの先導で向かったのは、街を見下ろす高台に建つ真新しい施設だった。隣には広大な軍の訓練場が闇に沈んでいる。ガラス張りの大きな窓の向こうには、軍港の無数の灯りが地上に降りた星空のようにきらめいていた。
「ここは普段、海兵たちが使う新しい食堂です。皆様の滞在中は、こちらでお食事を、と陛下が」
扉を開けると、真新しい木の香りがふわりと鼻をかすめる。数日前から海兵たちには別の施設を使うよう通達が出され、この日のために隅々まで磨き上げられたのだという。ランプの光を柔らかく反射する床が、その心遣いを物語っていた。
だが、その美しい夜景とは裏腹に、食堂へ続く道は張り詰めた空気に満ちている。
道を巡回する屈強な海兵たちが、すれ違いざまに複雑な符丁を交わし敬礼する。見知らぬ顔が一人紛れ込めば、一瞬で露見するだろう。
先ほど顔合わせを済ませたばかりの、鬼のように厳つい海兵がこちらに気づく。子供なら泣き出しそうなその顔に、ひどくぎこちない笑みが浮かんだ。
(……頑張って笑ってくれてるんだな)
その不器用な優しさに、私もにっこりと手を振り返す。彼は一瞬硬直し、さらに満面の――それでいて一層凄みのある――笑みで、大きく手を振り返してくれた。
……うん。警備、頑張ってください。
食堂の中は、さらに目を見張る光景が広がっていた。
長いテーブルには湯気の立つ大皿料理がずらりと並ぶ。肉汁の滴るローストチキン、色鮮やかな温野菜、魚介をふんだんに使ったパエリア。そして山と積まれた焼きたてのパンの香りが、食欲を強くそそる。
それは給仕を待つのではなく、好きなものを好きなだけ皿に取る、ビュッフェと呼ばれる形式だった。初めて見るその光景に、アルフォンス新王たちは少し戸惑ったように立ち尽くしている。
「はっはっは! 驚いたか、アルフォンス殿!」
隣で目を丸くする若き王の肩を、皇帝陛下が楽しげにバンバンと叩いた。
「これはな、あのマキナという小娘がここの料理長に提案した新しい食事の形よ! 管理も楽で、兵士たちも好きなものを腹一杯食えると大好評でな!」
見れば、皇帝陛下自らが皿を手に取り、得意げにアルフォンス新王を料理の列へと誘っている。その姿はまるで、父親が息子をもてなしているかのようだ。
私もこの気楽な形式がすっかり気に入った。
(これなら、好き嫌いの多い子供たちも楽しく食事ができる。孤児院でも取り入れられないかしら……)
そんなことを考えながら、香ばしい匂いに誘われて好物のエビのグリルを皿に取る。
その時、ふと視線を感じた。
少し離れたテーブルで、グレイグ中将とロッシ中将が巨大なジョッキを豪快にぶつけ合っている。その海の男たちの視線が、時折ちらりとこちらへ向けられる。
(……なんだろう)
首を傾げていると、隣で同じように料理を選んでいたマリア様が、扇で口元を隠しながら悪戯っぽく囁いた。
「あら、リナ。あちらのお二方、あなたの『お婿さん候補』でも品定めしているのかしらね?」
「ぶっ!?」
口に含んだジュースを噴き出しそうになり、思わずむせる。
「な、何を仰るのですかマリア様!」
「ふふっ。冗談よ。……まあ、あながち冗談でもないかもしれないけれど」
意味ありげな言葉に、顔にカッと熱が集まるのがわかった。
私は慌てて皿にデザートのケーキを山と乗せると、その場から逃げるようにセラたちのいるテーブルへと向かう。
背後から、マリア様の楽しげなくすくすという笑い声が聞こえてきた。
賑やかで、少しだけ騒がしいアクア・ポリスの夜。
温かな光と人々の朗らかな声が、つかの間の休息を優しく包んでいた。