第207話:『海竜の港、叱責と潮騒』
『スレイプニル』は帝国の軍港都市『アクア・ポリス』を目指していた。
だが、その船内は静かな地獄と化している。絶え間なく続く揺れに木の軋む音が重なり、潮の匂いが胃の腑を掻き乱す。
「……うっぷ……」
マリア様は完全に船室に引きこもり、グラン宰相も血の気を失った顔で甲板の手すりにしがみついている。アルフォンス新王でさえ、持ち前の強靭な精神力でなんとか甲板に立ってはいるものの、その横顔は土気色に沈んでいた。
私もまた、例外ではなかった。
「……リナ様、お水を。……しっかりとおつかまりください」
ぐったりとソファに沈む私の傍らで、セラとヴォルフラムが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。セラが絞ってくれた冷たいタオルが、熱を持つ額に心地よい。船が大きくうねるたび、体がふわりと浮き上がる。込み上げてくる不快な塊を、私は奥歯を噛みしめて必死にこらえた。
そんな阿鼻叫喚の中、一人、涼しい顔をしている男がいた。
吹き荒れる強風の中、船のマストの最上部に位置する最も高く大きく揺れる見張り台にハヤトは立って、漆黒のマントをはためかせ、まるで嵐の王がごとく眼下に広がる荒れ狂う波濤を見下ろしていた。
「うおおお! この揺れ! この風! これぞ我が魂の故郷よ!」
その能天気な叫び声が、今はひどく恨めしかった。
◇◆◇
幾日かが過ぎた朝。
荒れ狂っていた波が嘘のように凪ぎ、アクア・ポリスの白い街並みが姿を現した。
港は、これまで見たこともない厳戒態勢が敷かれていた。
湾の入り口には帝国海軍の最新鋭艦が鋼鉄の威容を誇示し、埠頭には“海竜”ロッシ中将直属の海兵たちが、磨き上げられた武具を手に一糸乱れぬ隊列を組んでいる。その荘厳にして息詰まるような出迎えに、アルフォンス新王もグラン宰相も、ごくりと喉を鳴らした。
やがて、『スレイプニル』がゆっくりと接岸し、道板が金属の軋む重い音と共に埠頭へ叩きつけられる。
その先には、陽光を背にした三つの巨大な影が待ち構えていた。
皇帝ゼノン陛下。
グレイグ中将。
そして、この港の主、“海竜”ロッシ中将。
帝国の武の象徴たる三人が、まるで神話の一場面のように、そこに立っていた。
アルフォンス新王がグラン宰相を伴い、緊張に強張った面持ちで船を降りる。
三巨頭は微動だにしない。ただそこにいるだけで放たれる圧倒的な威圧感が、若き王の肩に重くのしかかる。
やがて、皇帝ゼノンがゆっくりと一歩前に出た。
「――ようこそお越しになられた、アルフォンス新王。ガレリア帝国は、貴殿の来訪を心より歓迎する」
声は穏やかだが、大陸の覇者としての威厳が空気を震わせる。
「は、はい。……この度はお招きいただき、誠に光栄に存じます」
アルフォンスもまた、王として堂々と応じた。大陸の未来を見据える二人が、固い握手を交わす。その歴史的瞬間を、集まった兵士たちが固唾をのんで見守っていた。
公式な挨拶が交わされる喧騒の中、セラが私の耳元でそっと囁いた。
「リナ様。……陛下より、後ほど奥の執務室までお越しいただくよう、とのことです」
その言葉に、私の心臓が嫌な音を立てた。
(……絶対に、怒られる……!)
船酔いの吐き気とは違う、別の種類の冷たい汗が背筋を伝った。
◇◆◇
夜の宴が終わり、私はセラに腕を引かれるようにして、司令部の最奥にある執務室の前まで来ていた。
分厚い扉の向こうから、地響きのような低い男たちの声が漏れ聞こえてくる。
「……入りなさい、リナ」
セラに促され、私は恐る恐る重い扉を少しだけ開け、中を覗き込んだ。
そこには、巨大な地図を囲む三つの背中があった。
皇帝陛下、グレイグ中将、ロッシ中将。葉巻の煙が漂う部屋は、彼らの存在だけで張り詰めている。
「――来たか」
最初に気づいたのは、グレイグ中将だった。彼は振り返ってこちらを確認したあと、横へとずれて、皇帝陛下にその場を譲った。
「お前が、遠い国に攫われていたという、グレイグお気に入りの書記官のリナか」
皇帝陛下が、わざとらしく、しかし父親のような温かい声色で尋ねてきた。
「は、はい! リナです!」
「うむ。長旅、ご苦労であったな。『天翼の軍師』殿は帝都におられることになっておる。明後日から始まる軍議までは一人の書記官として、このアクア・ポリスで旅の疲れを癒やすが良い」
「あ、ありがとうございます!」
その温情に満ちた言葉に、私がほっと胸をなでおろした、まさにその時。
グレイグ中将の大きな手が、私の頭をがしりと鷲掴みにした。
「――だが、その前に、お説教だ、この大馬鹿者がッ!」
「ひゃいっ!?」
頭をぐりぐりと揺さぶられながら、私は三人の巨人による、愛情のこもった(そして非常に手厳しい)お説教を、小一時間ほど拝聴することになったのだった。
◇◆◇
ようやく解放され、ふらふらと司令部の外へ出る。頬にはまだ、三人の熱が残っているようだった。
外はもう、港町の賑やかな夕闇に包まれている。
酒場から漏れる陽気な音楽、潮風に乗って届く船乗りたちの威勢のいい声、そして魚を焼く香ばしい匂い。帝都の洗練された空気とは違う、荒々しくも生命力に満ちた活気がそこにあった。
「リナ様、お疲れ様でした」
セラとヴォルフラムが、心配そうに駆け寄ってくる。
「……ええ。少しだけ……」
私は、この街の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。軍議が始まるまでの、つかの間の休息。
この賑やかな港町で、少しだけ羽を伸ばすのも悪くない。
私は二人に向き直り、悪戯っぽく微笑んでみせた。