第206話:『黄金の港の粛清』
『スレイプニル』という巨大な影が水平線の彼方へと消え、ポルト・アウレオの港にはいつもの喧騒が戻っていた。夕暮れの光を浴びて穏やかに凪ぐ海。だが、その静けさは水面に張った薄氷のようだった。見えない水面下では、巨大な網が静かに、そして着実に引かれようとしていた。
◇◆◇
湿った土と黴の匂いがこもる、マルコ・ポラーニ商会ポルト・アウレオ支部の地下機密室。
壁で揺らめく蝋燭の炎が、集った男たちの硬い表情に深い陰影を落とす。中央のテーブルに広げられた一枚の羊皮紙。そこに記された名は、リリィが残した毒のリストそのものだった。
「――以上が、聖女マリア様からのご指示だ」
ピエトロ・ロレンツォの静かな、だが鋼のように冷たい声が、張り詰めた空気を震わせた。彼の前には、この街の新興派商人たちと、彼の指揮下に入った傭兵隊長たちが居並ぶ。
「対象は七名。いずれもドナート派の残党にして、アルビオンと裏で通じる鼠どもだ。……今宵、一斉に捕縛する」
その非情な宣告に、商人たちの顔から血の気が引いた。一人が脂汗を滲ませ、かすれた声で問いかける。
「ピエトロ殿……しかし、相手は我らと同じヴェネツィアの商人。血を流すことになれば、後々……」
「案ずるな」
ピエトロは、その躊躇いを凍てつくような視線で一蹴した。
「我らはあくまで『協力』するにすぎん。獲物の首に鈴をつけるのは、別の者たちの仕事だ」
彼の視線が、部屋の隅の闇へと注がれる。いつの間にか、そこには複数の影が音もなく佇んでいた。帝国の『影の部隊』だ。
一人の青年が静かに歩み出た。レオだ。
かつて孤児院で見せた柔和な面影は、今はもうない。この街の濁流を飲み込み、それでもなお前を見据える覚悟を決めた、引き締まった横顔。その瞳には、若者特有の熱情と、すべてを背負う者の冷徹さが同居していた。
「ピエトロ殿の言う通りだ」
レオの声には、揺るぎない重みがあった。
「俺たちの役目は、奴らが隠し持つ『帳簿』と『密書』の在処を突き止め、逃げ道を塞ぐこと。後の始末は、帝国のプロがやってくれる」
その言葉に、商人たちの顔に安堵と、そして自らが歴史の転換点にいるのだという興奮の色が浮かんだ。
◇◆◇
夜の帳が港を覆うと、作戦は始まった。
月明かりさえ届かない裏路地に、無数の影が溶け込む。
甘い香りの漂う高級娼館で、武器商人がワイングラスを傾けたまま意識を失う。
遠くの倉庫で上がった火の手が夜空を焦がし、密貿易商が慌てて駆けつけた隙に、彼の牙城は崩された。
獣しか通らぬはずの通路から忍び込んだ影が、貴金属商の喉元に冷たい刃を突きつける。
水が染み込むように、静かに、確実に。羊皮紙の上の名が、一つ、また一つと墨で塗り潰されていった。
だが、最後の一人、ヴィットリオだけが網をすり抜けた。
最も狡猾で用心深いことで知られる情報商。彼は夜風が運ぶほんの些細な異変――いつもと違う靴音、衛兵の巡回ルートの僅かなずれ――を嗅ぎ分け、すべてを悟ったのだ。
影たちが彼の屋敷の扉を蹴破った時、寝室の窓はすでに開け放たれ、夜風がカーテンを虚しく弄ぶだけだった。
ヴィットリオは石畳を蹴り、息も絶え絶えに闇を疾走していた。
(何が起きている……!? 街全体が、俺を狩る罠と化したようだ!)
背中を流れ落ちる冷や汗を感じながら、彼はかねてより用意していた古い倉庫へと転がり込む。
腐った魚と潮の匂いが充満する樽の陰で、彼は床板に爪をかけた。軋む音を立てて現れた空洞には、巡礼者の粗末な衣、数カ国の通貨が詰まった革袋、そして偽の身分証。
「……くそっ……一体、誰が……!」
震える指で上着のボタンを引きちぎり、ごわつく巡礼服に袖を通す。
(そうだ、聖王国へ。あそこならば帝国の狗どもも手出しはできまい……!)
彼は顔に煤を塗りつけ、背を丸めて歩き方を真似る。一人の敬虔な巡礼者が、夜明け前の闇に溶けていった。
◇◆◇
夜が白み始める頃、マルコ商会の地下室では、捕らえられた六人の男たちが猿轡を噛まされ、床に無様に転がされていた。
ピエトロとレオが静かにグラスを合わせる。琥珀色の液体がきらめいた。
「……見事な手際だったな、レオ殿」
「そちらこそ。これで、この街も少しは風通しが良くなる」
二人の間には、大きな仕事を成し遂げた者だけが共有できる、静かな信頼が生まれていた。
報告に来た影の一人が「……一人、逃しました」と悔しげに告げる。
「構わん」
ピエトロは冷たく言い放った。「網にかからぬ魚もいる。だが、この漁場は我々のものだ」
やがて港に朝の活気が戻る頃、七人の有力者が街から忽然と姿を消したという噂が、人々の間で囁かれた。だがその声も、すぐに日々の喧騒に掻き消されていく。
黄金の港の大掃除は、誰に知られることもなく、静かに完了した。
この街は名実ともに、新しい時代の旗手たちの手に落ちたのだ。